壺齋散人の 映画探検
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瀬戸内少年野球団:篠田正浩




篠田正浩の1984年の映画「瀬戸内少年野球団」は、決して傑作とは言えないが、主演女優の夏目雅子が独特の魅力を発していて、彼女が出ているというだけで、見るに値するものになっている。実際この映画の中の夏目雅子は、日本の女性の一つの典型を演じていて、その役柄が彼女の本来の姿と重なって、見る者に親近感を抱かせるのだろう。その彼女はこの映画の翌年に癌で死んでいる。だからこの映画は、彼女の遺作と言ってもよい。

映画の舞台は敗戦直後の淡路島だ。そこの学校で、八月十五日の詔勅のラジオ放送を聞く生徒たちを写しながら映画は始まる。夏目雅子はその学校の教員をつとめ、生徒たちから駒子先生と呼ばれている。映画はその駒子先生と生徒たちとの心の触れ合いを描く。それゆえ、二十四の瞳を思い出させないでもないが、こちらは生徒たちの年齢が高学年で、思春期に入ろうという段階なので、教師と生徒の関係はまたかなり違っている。生徒の自己主張が強いのだ。それは、大人たちが敗戦で自信を失ったこともあって、余計に強い自己主張に映る。

敗戦直後だから、映画全体に戦争の影が広がっている。駒子先生自身夫を戦争で亡くした未亡人ということになっているし、島中には同じような未亡人がたくさんいる。岩下志摩演じる床屋の女将もそうした一人だ。彼女は独り身の欲求不満から、男が恋しくてたまらない好色な女ということになっているが。

また、島には米軍が駐屯して来て、島に設置されている砲台を爆破したり、この島に身を寄せていたもと海軍提督をB級戦犯として逮捕したりする。この提督は、難破した英艦の乗員を救助しないで死なせた罪で戦犯にとわれたという設定になっていて、不当な逮捕だというようなニュアンスが伝わってくる。そのあたりは作者自身の歴史観が反映しているのだろう。

駒子先生は、夫の弟から言い寄られたあげくに、無理やりセックスをさせられてしまう。もっとも強姦とはいわれず、意に反した性交というような位置づけだ。だから駒子先生は弟を糾弾するようなことはしないかわりに、自分を責めるのだ。そして子供たちを前に、人の意思の尊厳を説く。人間というものは、どんな境遇でも精神まで屈服させられることはない。精神だけはつねに自立していなければならない。そう語る先生の姿を見て子供たちは、先生がなぜそんなにも怒っているのか理解できない。

やがて一人のもと傷病兵が子供たちの前に現われる。郷ひろみ演じる駒子先生の夫だ。夫は自分が廃疾者になってしまったことを遠慮して、妻の前に素直に姿を現すことができない。夫が生きていたことを子どもを通じて知った妻のほうも、ほかの男に身を任せた後ろめたさから、夫の前に晴れやかに姿を見せることができない。そんな二人を子どもたちが間に入って結びつかせるのだ。

子どもたちのなかには、提督の娘がいて、彼女と島の子供たちとの交流がサブプロットになっている。その交流を媒介するのが野球だ。野球は、郷ひろみが学生時代に夢中になった競技で、それを通じて夫と妻が精神的に結ばれているといった要素がある。その野球を子供たちに広げようと決意した駒子先生とその夫の努力が、映画の後半の主なプロットを形成する。

しかし何故野球なのか。そこがいまひとつ明らかではない。一応駒子先生と夫を結びつけた絆ということになっているが、それを何故子供たちにも教えようとするのか。そこがわからないのだ。しかしわからないままにも、野球を通じた子どもたちと駒子先生、そしてその夫の心の触れ合いはなんとなく伝わって来る。

そんなわけでこの映画は、作り方にかなりゆるい所があるものの、夏目雅子という女優が子供たちとの間で繰り広げるさまざまな触れ合いのエピソードが、観客にしっとりとした感じを抱かせるのである。




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