壺齋散人の 映画探検
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東京裁判:小林正樹のドキュメンタリー映画



小林正樹が1983年に作ったドキュメンタリー映画「東京裁判」は、太平洋戦争の日本側の指導者を裁いた「極東国際軍事裁判」の様子を取り上げたものである。東京裁判が終結したのは1948年のことだが、それから35年もたってドキュメンタリー映画が作られたのは、裁判の記録の公表と関係している。米国防総省が裁判記録を公表したのは、裁判終結から四半世紀たってのことであり、この映画はその膨大な記録を編集することで作られたのである。

東京裁判については、すでに様々な研究が発表されており、国民はその概要を知ってはいた。特に児島襄が中公文庫の形で発表した「東京裁判」は、裁判の概要とその意義についての標準的なガイドブックとして、多くの国民が読んでいた。この映画は、そうした国民の東京裁判についての知識とか評価について、大きな変更をせまるほどのインパクトはなかったが、映像というかたちで、それもかなり体系的でまとまったかたちで示されたわけで、東京裁判についての国民の認識に一定の影響を与えたところはあった。

それはどういうことかというと、東京裁判の見方を相対化するような作用を及ぼしたということだといえる。東京裁判については、戦勝国が敗戦国を裁いたのであって、からなずしも正義の裁判とはいえなかったが、それでも日本の戦争指導者には一定の責任があったのであり、この裁判はその責任を追及した範囲において、正統性を認めねばならぬ。裁かれた日本の指導者は、自分自身の責任を果たしたのであって、なにも不当に裁かれたわけではない、というような見方が、その当時までの大多数の日本人に抱かれていたと思うのだが、そういう見方に対して、この映画はかなり挑戦的な姿勢を示している。この映画を見て感じさせられるのは、東京裁判は正義の裁判ではなく、したがって裁かれた日本側指導者は、日本国家にいわば殉職したのだというような主張が伝わってくるのである。そうした見方は、大多数の日本国民からも忌避されていた東条英機にも及び、かれもまた、殉職者の一人だというような主張が強く伝わって来る。

とにかく、インターミッションを挟んで、四時間半を超える大作である。その長時間の間に、裁判の進行と、その背景となる戦争の状況が、並行して紹介される。映像のほとんどは米国防総省が発表した記録フィルムからとられたらしい。日本がかかわった戦争のほかに、ナチスにかかわるものも含まれる。そのなかには、ユダヤ人ホロコーストの現場をうつしたぞっとするような映像もある。その映像は、アラン・レネの「夜と霧」にも出て来たものであるから、小林は米軍フィルムのほかにも参考にしたものがあったようだ。

児島襄もいうように、東京裁判が歴史上に抱える最大の疑問点は、その正統性をめぐるものである。裁判の正統性は管轄権問題として現われるが、その管轄権問題をめぐる論争から東京裁判は始まった。これを最も強く主張したのは日本側弁護士清瀬一郎であって、清瀬は東京裁判当時の国際法では、平和に対する罪などというものはなかった。刑法の原則からすれば、罪はそれが犯された時点で明文化されていなければならない。ところが太平洋戦争が始まった時点では、そのような罪はどこにも明文化されてはいなかった。ということは、東京裁判は、存在しない罪に基づいて日本の戦争指導者を裁こうとするものであり、したがって刑法の原則から逸脱している。これは裁判の名を借りた、戦勝国による敗戦国への復讐にすぎない。こういう議論を清瀬は展開して見せたわけだが、それについて裁判官側はなんら合理的な返答をすることがなかった。日本側戦争指導者を平和の罪という法的な概念によって裁くことは、ニュルンベルグ裁判におけると同じく、連合国側の既定方針なのであって、それをいまさら正面から疑問に付すことは論外である、というわけである。

そのように裁判官たちに言わせることで、この映画は、東京裁判が政治的な復讐だったということを強調することに成功しているようだ。というのも、この映画は創作ではなくドキュメンタリーであって、映画の中の発言なり行動なりはすべて事実に即したものであり、その事実が、この裁判の政治的な性格を強く裏付けていると見ることができるのである。

かくして、この裁判が政治的なものであるとの前提に立って、映画は、裁かれる日本側指導者たちが、いずれも自分の信念にもとづいて言動しており、その態度には見苦しいところはほとんどなかった。つまりかれらの態度は実に潔いものだったと思えるような演出をしている。なかには、被告同士で責め合うような身苦しい場面もあるが、だいたいにおいては、日本側指導者はみな潔く振る舞ったとして描かれている。それは東条英機についても同様で、映画は東条が潔く答えつつ、自分の政治家としての責任を認めているところはあっぱれであるというような描き方をしている。戦争を知らない世代の若者がこの映画を見たら、東条を始めとした日本側指導者たちは、みな潔く振る舞ったのであって、連合国側は敗者への復讐を法の網をかぶせて合理化しようとしていると思うにちがいない。

こういうわけで、この映画はかなりバイアスのかかったものとなっている。そのバイアスを通じれば、日本は正しい戦争をしたが、腕力が及ばず敗れたのであって、その結果ありもしない罪によって裁かれたと、少なくとも多くの日本人が思い込むように作られているといえよう。




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