壺齋散人の 映画探検
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高嶺剛「ウンタマギルー」:本土復帰直前の沖縄



高嶺剛は沖縄の石垣島出身ということもあって、沖縄に拘った映画を作り続けた。その映画のスタイルは、沖縄の民話を意識しながら、沖縄の人々の暮らしぶりを幻想的に描くというものだった。1989年の作品「ウンタマギルー」は、そうした高嶺の代表作である。この映画は、本土復帰直前における沖縄の人々の暮らしぶりを、沖縄県西原町に伝わる民話「運玉義留」を織り交ぜながら、幻想的な雰囲気の映像に仕上げたものである。

舞台は本土復帰直前の沖縄のある村。その村の砂糖黍農園に働く人々をめぐる物語だ。その農園を経営するのは西原という盲目の男。その男は一人の豊満な女を養っていたが、じつはこの女は豚の化身だった。その豚の化身を、西原はウンタマ森の神から預かっていたのだ。その女とセックスした男は、みな森の神の呪いによって死ぬことになっている。ところが、この映画の主人公であるギルーは、女とセックスしたにもかかわらず、死ぬことはない。かえって森の神から、溺れていた子を助けてくれた礼だと言って、超能力を授けられる。この能力を駆使して、男は沖縄の義賊として活躍する。その活躍とは、沖縄の独立運動をする人々を援助することだった。

というわけでこの映画は、幻想的な民話を織り交ぜながら、本土復帰以前の沖縄の政治運動に言及している。その運動は三つあった。日本本土への復帰、現状維持、そして独立である。この映画に出て来る人々は、独立に強いこだわりをもっている。それに対して、農園の経営者をはじめ、支配層の連中は、本土への復帰を望んでいるというふうに整理されている。だから、この映画は、復帰派と独立派との対立を中心とする政治映画という側面ももっている。

だが、映画の最大の特徴は、全編が沖縄語によって表現されていることだ。時折東京標準語が出てきたりはするが、基本的には沖縄語だけで進行している。こういう映画は非常に珍しいといわねばならない。ともすればこういう映画は、言葉の壁のために本土の日本人には敬遠される恐れがあるが、この映画の場合には、字幕でカバーすることで、外国映画を見ているような気にさせ、それが受けて、本土でも結構人気を呼んだ。人気の秘密はやはり、民話にもとづく幻想的な物語設定ではあったが。

冒頭で、村の一角に集まった人々が、楽器を演奏しながら踊り、その踊りに合わせてさまざまな発言をするところを映す。ついでアメリカ人の高等弁務官が登場し、愛想のない男だと紹介される。弁務官は、自分は沖縄の絶対者だと誇るのだ。さらに舞台は海辺に移動し、額に槍が突き刺さった男が登場する。この槍が何を意味するかは、映画のラスト近いところで明かされる。

さて、映画の主な舞台はサトウキビ農園である。その農園で、人力でサトウキビを絞る仕事に従事する男たち。その中の一人がギルーだ。ギルーには、チルーという名の妹がいて、売春をしている。また母親は病床に臥せっているが、それは過食症のためだ。旺盛な母親の食欲を、息子のギルーは蟻の密を与えることでやわらげている。

農園には一人の豊満な女性がいて、いつもサトウキビを絞る男たちを眺めている。ギルーは、マレーというこの女を誘惑して、ウンタマの森に連れて行き、そこでセックスをする。ところがその女が、豚に変身しているところを見て大いに驚く。それを見られた農園主の西原は、ギルーを殺そうとする。そのうえ、自分で農園に放火しておいて、その罪をギルーになすりつけようともする。命の危険を感じたギルーは、ウンタマの森に身をかくし、そこに母親を呼び寄せて持久戦を覚悟する。そんなギルーの前に現われたウンタマの森の神は、ギルーが自分の子どもを助けてくれたことに感謝して、マレーと寝た者は殺す掟なのを棚上げにして、かえってギルーに超能力を授けてくれる。ギルーは空中を自由に飛び回ることができるようになるのだ。その能力を使ってギルーは、占領軍から食料や武器を奪って、それを独立派の人びとに与えたりする。そんなかれを、沖縄の官憲が追ってきて、ひと騒ぎになったりもする。

ギルーは、まわりの人びとからウンタマギルーと呼ばれ、尊敬を集める。そんななかで、妹のチルーが、豚の化身マレーともども弁務官に献上される。それをギルーは取り戻しにいくが、チルーは弁務官に恋をしてしまって、このままでいいと答える。また母親は、筏にのって大海原に出発する。彼女はギライカナイに向けて旅立ったのだ。

そうこうしているうち、村では恒例の祭が催され、様々な芸能が披露されるなかにも、ウンタマギルーも演技をすることになる。西原も姥のウトゥーと一緒に見物に来ていたが、舞台の上のウンタマギルーに向って槍を投げ、その槍が見事にギルーの額を貫く。こうしてギルーは超能力を失って死んでいくのだ。だが映画はその所で急展開する。実は以上の出来事は、一人の男の夢の中の出来事だったとアナウンスされるのだ。その夢を見ていたのはサンラーという男だが、この男も西原のサトウキビ農園で働いているのだ。その農園に現実の西原らしい男がやって来て、従業員に向って、沖縄が日本に返還されることになったと知らせる。その後、どういうわけか西原は、マレーらしい女を抱いたまま、ダイナマイトを爆発させて自爆してしまうのである。その理由は、画面からはわからない。

こんな具合にこの映画は、沖縄らしさを感じさせるファンタジーに、沖縄の政治的な課題をからませて描いており、ただの娯楽映画でもないかわりに、露骨なプロパガンダ映画にも陥っていない。なかなか面白い映画である。



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