壺齋散人の 映画探検
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篠田正浩「沈黙」:遠藤周作の小説を映画化



篠田正浩の1972年の映画「沈黙」は、遠藤周作の同名の小説を映画化したものである。この小説は、ポルトガルから来たイエズス会宣教師の棄教をテーマにしたものだ。キリスト教徒の殉教を描いたものとして肯定的な評価があった一方、日本のカトリック教会を中心に大きな反発もあった。原作が公刊されたのは1966年のことで、カトリック側からの反発が表面化したのは1972年ごろというから、原作のほかにこの映画もカトリックを刺激したものと考えられる。とくに映画の中で、パードレが踏み絵を踏む場面が、キリスト教の聖職者を侮辱しているといった感情的な反発を呼んだ。

原作者の遠藤自身が脚本作りにかかわっているので、原作をそのまま忠実に再現したかというとそうではない。原作はパードレの心理描写が中心となっており、劇的な要素には乏しい。それでは遠藤も映画にならないと思ってか、かなり劇的な効果を発揮するように脚色している。そのほとんどは、日本人の殉教者に対する役人の拷問シーンだ。この映画の見せ所は大部分が拷問シーンであって、したがって殉教がテーマではあるが、信仰のために身を滅ぼす人々の苦痛が前景化した作品である。それがこの映画の迫力であると同時に、弱みともなっている。原作はあくまでも人間の内面をえぐりだすことに拘っているのに対して、この映画は、肉体的な暴力に彩られているのである。

遠藤周作という作家は、自身キリスト教徒であって、原作にはキリスト教徒としての自分の思いも込められているのだと思う。その遠藤がなぜ、棄教それもイエズス会神父の棄教をテーマにしたか。これは棄教と同時に殉教の映画でもあり、殉教という面では、世界中のキリスト教徒の共感に値するものだったが、しかし宗教者が踏み絵を踏んで棄教したという設定は、キリスト教徒の反感をかうに十分だった。しかも遠藤は、その棄教を合理化するような書き方をしている。タイトルにもあるように、神は信じる者の呼びかけに沈黙し続けた。それは棄教もやむを得ない選択だと認めたことではないか。そう受け取られるような書き方が、キリスト教徒の大反発を招いたのだと思う。これは信仰の書ではなく、無神論を勧める書だというわけである。

そうした精神的な部分が原作の醍醐味になっているのであるが、映画ではそうした精神的な要素は軽視され、信者への拷問とか、日本の官憲とのかけひきとか、外形的な要素が強調されている。そうしたやり方は、原作の趣旨を大いに逸脱するものだと思うのだが、遠藤自身それでよいとしたわけだから、この映画は、原作とは切り離して見たほうがよいのだろう。遠藤は非常にひょうきんな側面も持っていたので、この映画を作るにあたっては、原作を離れて、エンタメ性を追求したということかもしれない。

なお、マーティン・スコセッシが1986年に作ったバージョンは、原作にかなり近い雰囲気を再現している。



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