壺齋散人の 映画探検
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夫婦善哉:豊田四郎



豊田四郎の1955年の映画「夫婦善哉」は、織田作之助の同名の小説を映画化したものである。大阪船場の化粧品問屋の道楽息子と芸者の繰り広げる痴話物語をコメディタッチに描いたものだ。息子柳吉(森繁久弥)は店の金で遊び歩き、妻子をほったらかして芸者にうつつを抜かしていることで、父親から勘当にされている。一方芸者の蝶子(淡島千景)は、男に身請けされて一緒に暮らし始めたものの、男のいい加減さになんどもげんなりされながらも、あきらめて男の面倒を見続ける。その二人の掛け合いが面白おかしく描写されるだけで、映画はなりたっている。だから大した筋書きはない。ただ映画が進行しているうちに、男の妻と父親が死に、女の両親も死んで、世の中に二人きりになりながら、あるいはそのためにかえって、別れがたくなるという人生の機微を観客は感じさせられるというわけだ。

と言うわけでこの映画の見どころは、男と女が繰り広げる痴話喧嘩だ。この二人は喧嘩をするたびに、互いを結びつける絆の強まるのを感じるといった具合に、いじらしく罵りあい、慰めあう。男が店との縁が切れて一文無しになったところで、女の男への感情は頂点に達し、女は自分がこの男を養って行こうと決意する。その女が映画の最後で発する言葉、「いまさら返らぬことながら、わしというものがないじゃなし」は、こういう境遇の男女にふさわしい言葉だ。

こういうタイプの男女のカップルは日本の社会ではめずらしいものではなかった。そういうカップルは大抵女のほうがしっかりしていて、男はそれに甘えながら生きている。それは傍目にはツツモタセとか、男が女を食い物にしているとか、映るものだが、この映画の中の女は、それを自分で受け入れて、愚痴をこぼしながらも男を捨てることがない。だからこそ別に大して腹も立たない。溝口健二なら、男に対してもっと厳しい視線を向けるところが、そうはならないのは、原作者の織田作之助自身がこういうタイプの男だったからだろうか。

女はいつも、「あてはあほや」とぼやいている。一応男に食い物にされている境遇を嘆いているのである。それでも男の弱り切った顔を見ると、捨ててはおけない。男を自分の胸の中に抱いてやろうとするのである。そんな女に男も甘えて、自分から抱かれるのである。そのへんの機微は、我々現代の日本人には次第に理解しがたいものになってきつつあるが、かつての日本では、こうしたカップル、観音様のような女と子どものように甲斐性のない男の組み合わせは、珍しいものではなかったのである。

題名になった夫婦善哉とは、一杯分の善哉を茶碗二つにわけて出す店のことを言い、実在したそうだ。映画の中でもその善哉のいわれを、女が語ってきかせる場面がある。その善哉を食い終わったところで、女は男とやり直す決心をつけ、付近の神社にお礼参りに行こうとする。なにごとも神仏の思し召しと受け取る所に、この女の古さと善さがあるという具合に、その辺は心憎く演出されている。




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