壺齋散人の 映画探検
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日本侠客伝:マキノ雅弘



「日本侠客伝」は、1960年代後半に爆発的に流行したいわゆるやくざ映画のさきがけとなった作品である。高倉健主演のこの映画は、「東映やくざ」映画と称される膨大な作品群の手本となったものであり、ストーリー展開や人物設定などさまざまな面で、以降のやくざ映画に大きな影響を与えた。

この映画が作られる前には、やくざをテーマにした映画と言えば、次郎長物を典型とした時代劇の任侠映画が中心だった。それがこの映画を境にして、現代劇のやくざ映画へと発展していった。この映画自体は、戦前の舞台設定である点で過渡的な形をとってはいるが、その後シリーズ化され、二作目以降は次第に現代劇へと変化して行ったし、「網走番外地」や「昭和残侠伝」といったシリーズでは、最初から現代劇の形をとった。

日本のやくざ映画の大きな特徴は、やくざの組織同士の抗争を描くことにある。いわば善玉のやくざと悪玉のやくざがあり、善玉のやくざが悪玉のやくざによって圧迫されたあげく、理不尽な仕打ちを受ける。そこで善玉のやくざの中からスーパーマンのようなやくざが現れ、それが悪玉たちを一網打尽に退治するというのが大方に共通したストーリー展開である。「日本侠客伝」は、そうしたストーリー展開の古典的な形として、以後のやくざ映画の範例となった。

映画は、戦前の深川を舞台としている。その頃の深川といえば、木場の材木と辰巳芸者が名物だったわけだが、この映画に出てくるやくざは、木場の材木の荷役を仕切っているということになっている。荷役は、日本のやくざ組織の大きな資金源としての役割を持ってきたとされるが、この映画の中のやくざ組織にもそれがあてはまるわけである。そのやくざに二つの組織がある。ひとつは四十年来深川に根を張った伝統的な組織(木場政)であり、ひとつは新興のやくざ(沖山)である。木場政のほうは、新門辰五郎の流れを引く名門のやくざということになっているが、沖山のほうは新興のやくざとして、近代的な組織運営を持ち味としている。資本主義の経済原理を適用して、効率的に金を稼ぐのがうまいのである。その点でこのやくざは、いわゆる経済やくざの先祖みたいなものである。

沖山のほうは、請負料のダンピングなどを通じて、シェアの独占を確立した上で、独占的な地位を利用して今度は請負料の大幅アップを強要するなど抜け目のない商売をする。これに対して、義理人情だけが持ち味の木場政は、まともには立ち向かえない。その上、沖山のほうは、地元の代議士やら警察署まで、金の力にものをいわせて抱き込んでいる。経済的に商売敵を追い詰めるだけでなく、政治的にも圧倒的な羽振りを利かせるわけである。

そんな沖山の横暴の前で、なすすべもなかった木場政に、一家のヒーローであるやくざ(高倉健)が、軍隊を除隊となって、五年ぶりに戻ってくる。いまや親分を失った一家は、高倉健を小頭にたてて、組織の再興を図ろうとする。だがその前に、沖山が大きな力を振り回して立ちはだかる。

かくして木場政と沖山の間に、死闘ともいうべき抗争が始まり、ついには堪忍袋の緒をきらした高倉健が、沖山兄弟を惨殺するというわけなのである。

映画の筋書きは単純きわまりない。沖山のあくどいやり方に、高倉健ら木場政の若い衆が歯軋りをさせられる、その過程で小競り合いのようなものが起こり、組の客分だったやくざ(中村錦ノ助)が沖山に単身乗り込んでいって返り討ちにされたりする。このやくざが何故、このような行動をとったかについては、映画は多くを語らない。それがさも自然なことのように淡々と進めるのである。

この映画の最大の魅力は、高倉健の表情だろう。この映画は、八割がたこの表情でもっているといってもよい。理不尽に耐えているときのストイックな表情もいいが、怒りを解放したときの爆発的な表情も良い。静と動との対比とも言うべきこの対立が働いているおかげで、映画は非常に引き締まって見える。

時代設定が戦前ということもあって、軍部の権力がかなり強調されている。彼らは木場の旦那衆に無理な仕事を強要する理不尽な存在であり、また、庶民の都合などいささかも考えない暴君として描かれている。警察のほうも、沖山に加担して、木場政を一方的に圧迫する理不尽な存在として描かれている。しかも彼らは、沖山に金の力で丸め込まれているという印象さえ与えるように描かれている。こんなところからこの映画には、反権力的な匂いが漂っていると言える。この映画がヒットした理由が、そんなところにあると言えなくもない。

なお、沖山兄弟の兄貴を演じた安部徹がなかなかの迫力を感じさせる。この男は頭がよいだけではなく、腕っ節も強いのだ。映画の最後で高倉健と一騎打ちを演じるが、互角に戦っている。悪役が強ければそれだけ映画も締まるということの見本のようなものだろう。





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