壺齋散人の 映画探検
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伊丹十三「大病人」:死期を迎えた老人の苦悩



伊丹十三の1993年の映画「大病人」は、末期がん患者の死に方を描いた作品である。人は、生まれ方は選べないが死に方は選べる、とはよく言われる言葉だが、まさにその言葉通り、自分の死に方を自分自身で自主的に選んだ男の物語である。いまでこそ、医療の現場では、患者に延命治療の是非を選択させる風潮が起ってきたが、この映画が公開された頃は、そんなことはあり得ないと考えられていた。医者は、少しでも患者の命を伸ばすために延命治療を行うのが当然だと考えられていたし、患者のほうにも延命治療を拒否する権利は与えられていなかった。「終の信託」という映画のなかで、延命治療を拒んだ患者に協力して、死なせてやった医師が嘱託殺人に問われる話があったが、そんな時代状況だった。そんな状況のなかで、延命治療について考えさせるこの映画は、社会に向って一定の問題提起をしたところがあった。

三国連太郎演じる映画監督が、癌患者をモチーフにした映画を撮影している。ところが自分自身が末期の癌患者であることがわかる。この監督は好色が原因で、宮本信子演じる妻と離婚話が進行していたのだが、ひょんなところから夫の癌を疑った彼女が、昔なじみの医師(津川雅彦)の所へ連れて行ってみてもらったところ、胃に末期がんが出来ていて、余命いくばくもないということがわかった。医師も妻も本当の病状を監督に話さないで、胃潰瘍だと説明する。その説明を信じていた監督が、次第におかしいと気付く。ましてや、二度も大手術を受けて、一向に改善する様子がない。そこで諸般の状況を彼なりに総合して、自分は癌に違いないと思い込む。

その思い込みを津川にぶつけるのだが、津川はあくまでもしらを切る。怒った三国は津川に大けがをさせて、自分は自殺をはかる。その自殺はうまくいったようにみえ、実際三国の霊魂は肉体を離れ、仮想空間を遊泳するのだ。その遊泳の様が、日本人古来の霊魂観を反映していてなかなかよくできている。古代の日本人にとって、肉体から離れた霊魂は肉体のまわりにしばらくとどまって、再び肉体に乗り移る場合があると考えられていたのである。その考え通り、三国の霊魂は再び肉体と結びつき、生き返るのである。

生き返った三国は、津川と腹を割って話し合い、自分の死に方は自分に選ばせてほしいと願う。それに対して津川は、医師には患者を見捨てることはできないと強く反発するのだが、そんな津川に三国は、自分には尊厳のなかで死んでいく権利があるし、また、死ぬまでにやりたいこともある。それをやって、満足した気分で死んでいきたい。だからこれ以上の延命治療をしないでほしい。ただ、痛みには耐えられないので、痛みだけは和らげて欲しいと懇願する。

そんな三国の懇願を受け入れて、津川は延命治療を中止し、三国の退院を許して、好きなことをやらせてやる。かくして三国は、自分がやり残していた映画の撮影を続行し、その出来栄えに満足しながら息を引き取るというような話である。

この映画が投げかけた、死に方を選ぶという問題提起は、先にもちょっとふれたように、だんだんと社会に受け入れられつつあるようである。ただ、現状を見ると、生きてもあまり意味のない人間のために延命治療を続けるのは社会資源の無駄だというような捉え方もある。人間の死の意味について十分な共通理解ができていないので、そのような捉え方も出て来るのだろうと思う。この場合肝心なのは、死に方を選ぶのはあくまでも患者本人であって、社会がそれを強制することであってはならないということである。

三国の演技ぶりがなかなかよい。津川もいいところを見せている。津川は大根役者の部類に入るが、この映画の中では、三国の演技と対抗するかのように、気迫のある演技をしている。



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