壺齋散人の 映画探検
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伊丹十三「静かな生活」:大江健三郎の小説を映画化



伊丹十三の1995年の映画「静かな生活」は、大江健三郎の同名の小説を映画化したということになっているらしい。小生は原作を読んでいないので、何とも言えないのであるが、映画を見た限りでは、どうも忠実な映画化ではないらしい。というのも、この映画には、大江健三郎の様々な小説からの引用と思われるシーンが多く出て来て、単一の作品の映画化というより、大江作品のエッセンスをつまみ食いするような形で映画を作ったと思われるところがある。無論小生は原作と厳密な比較をしているわけではないので、何とも言えないのではあるが。

映画は、オーストラリアに妻とともに長期出張することになった大江が不在の間、留守をまかされた三人の子供たちが助け合って暮らすさまを描いている。その大江が映画のなかでは、かなり戯画化されて描かれている。また、大江の傷害のある長男はイーヨーという名で出て来て、世間から心ない差別を蒙りつつも、好きな音楽に打ち込みながら心清らかに生きている。その妹はマアちゃんという名前で出て来て、イーヨーの面倒をみてくれる。彼らの関係は、兄妹ではなく、姉弟のようである。末の弟も出て来るが、これは予備校で受験勉強中ということになっていて、あまり大した役割は果たさない。

映画の見どころはなんといっても、マアちゃんがイーヨーの心配をするところにある。彼女はまた、父親から言われてイーヨーを水泳スクールに通わせる。そこである青年のコーチを受けるようになるのだが、その青年というのが暗い過去を持っていて、しかも大江に対して意趣を含んでいる。青年のことを聞いた大江は、あまり近づくなと忠告するのだが、果たしてあまりに近づきすぎて青年のマンションに立ち入ってしまったところ、突然牙をむきだされて、強姦されそうになる。その場はイーヨーの機転などがあって強姦されずにすんだが、青年のあまりの豹変ぶりにマアちゃんは茫然とするのだ。

この青年が大江に意趣を抱いたのは、自分のことを小説の種にされ、それがもとで世間の迫害を受けたと思い込んでいるからだ。たしかに大江には、実在の人物を小説の題材にする傾向が強くて、それがもとに大騒ぎになったこともある。たとえば「セヴンティーン」と「政治少年死す」だ。これは浅沼稲次郎殺害犯を戯画的に描いたものだが、それに右翼が激怒して、大江は一時かなりの脅威を覚えた。映画のなかで、大江の娘が付け狙われるのも、それと同じで、自分の書いた小説のことで、怨みをかった結果だというふうにこの映画は匂わせている。

娘が強姦されそうになったなどと、大江が小説に書くことは考えにくいので、これは伊丹の脚本なのだろう。これに限らずこの映画には、大江に対する批判的な視点を感じさせるところがある。伊丹十三といえば、よく知られているとおり、大江の妻の兄である。その義理の兄が、義理の弟に対して、かなりシニカルな見方をしているというのは興味深いところだ。大江の小説のなかで、伊丹はあまり好意的には描かれていないので、伊丹のほうでも大江を突き放した目で視たということだろうか。

この映画は、大江がノーベル賞をとったすぐ後に公開されたので、話題性はあったはずなのだが、興行的には失敗した。ノーベル賞をとって国民の注目を浴びている最中の大江を、かなり戯画化して、否定的に描いたところが、国民に支持されなかったのだと思う。

伊丹作品の常連宮本信子は、音楽家の妻としてイーヨー兄妹を支える役で出ている。この作曲家は、大江の友人としては、武満徹ということになるが、実際の武満とはかなり違った雰囲気に描かれている。それでも大江に比べればかなりまともな描き方ではあるのだが。

大江の娘のマアちゃんを演じた佐伯日菜子がなかなかチャーミングだ。この映画に出た時彼女はまだ18歳だった。その年齢に相応しいういういしさと、兄イーヨーの面倒を見るかいがいしさとが、ほどよく調和して、なかなかよい雰囲気を出していた。



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