壺齋散人の 映画探検 |
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大林宣彦は、青春映画が得意で、いまでも多くのファンがいるという。彼の映画には、子どもから大人になりかけている少年や少女たちが登場して、人生の中で一回限り出会う出来事に体をはってぶつかっていく姿が描かれている。そうした姿が、同年代の少年少女たちの共感を呼ぶのは無論、かつてそのような少年や少女だった大人たちをもノスタルジックな気分にさせるのだろう。同じ大人でも、もはや少年時代の生き生きとした記憶を失ってしまった筆者のような老人には、彼らの気持にはなかなか感情移入できないが、それでもほのぼのとした気持にはなれる。 大林は尾道の出身ということもあって、尾道を舞台とした映画を数多く作った。「時をかける少女」(原作は筒井康隆)もその一つで、所謂「尾道三部作」の二作目にあたる。尾道は瀬戸内海に面した古い街で、漁業や舟運が盛んなのに加え、風景が美しい。この映画は、その美しい風景を背景にして、この街に生きる少年少女たちを描いている。尾道という町は、海岸の近くまで山が迫っていて、したがって坂が多い。その坂に沿って古い家並みが立ち並んでいる。この映画の中の少年少女たちは、そうした家並みの軒先を歩きながら、挨拶を交し合って、親密に生きている。彼等は、草が地面に根付くように、この古い街に根を張って生きているという印象が、画面から伝わってくるように作られているのである。 映画の筋書きはSFタッチだ。題名が暗示するように、時空をワープする少女の物語だ。原田知世演じるこの少女は、ふとしたことから時空を超越する超能力を得たおかげで、同じ一日を三度も繰り返して生きる。この少女が超能力を得た直接のきっかけは、ラベンダーの香りをかいだということになっているが、実はそれ以前に、未来から現在にワープしてきたある少年から、まじないのようなものを仕掛けられた結果だということが、映画の最後にわかる。その少年は数百年後の日本からやってきたのだが、その理由は、未来の日本では植物が消滅し、薬学研究ができなくなったために、植物を求めて現在の日本へやってきたというのだ。 理由はともあれ、この時代の日本にやってきたこの未来の世界の少年を、時をかける少女は愛してしまう。映画はその少女が少年に感じる愛を描いているのである。その愛は、ちょっとせつなくて、また甘酸っぱい。少年少女であった経験のある人には、誰にも心当たりのある感情だ。 そんなわけでこの映画は、SFタッチで観客をわくわくさせながら、思春期の少年少女の甘酸っぱい胸の中を描き出すことで、独特の世界を現出させている。そこが大ヒットした最大の理由だろう。 この映画に出てくる風景は大部分が尾道のものだが、一部西隣の竹原の風景も出てくる。少女たちの上に屋根瓦が崩れて落ちてくる場面があるが、その屋根瓦のある建物が竹原の寺のものだということらしい。また、尾道の町の風景は、狭い路地だとか山の斜面だとかが多くて、たとえば海の眺めだとか、ロープウェーからの展望だとか、所謂尾道らしさがあまり出てこないというので、地元の人には不平を言うものをいたようである。しかしそうしたところにこそ尾道の本当の尾道らしさがある、というのが尾道っ子である大林の信念であるらしい。 |
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