壺齋散人の 映画探検 |
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大林宣彦の「青春デンデケデケデケ」は、尾道三部作の延長上にある青春映画だ。舞台は尾道とは瀬戸内海を隔てた対岸の町観音寺。この町は地図で見ると尾道の南東にあたっているのがわかるが、島影によって遮断されていないので、お互いに良く見えるそうである。だから尾道三部作を、大林本人がいうように瀬戸内海を舞台とした青春映画とすれば、「青春デンデケデケデケ」もその範疇に治まる。 「デンデケデケデケ」とは、エレキギターの擬声語だ。そこからわかるようにこの映画は、エレキギターに熱中した少年たちの青春物語というようなものだ。この映画に出てくる少年たちは、1960年代の半ばに高校生活を送ったという設定になっているが、この時期は日本でもエレキブームが沸き起こっていた。少年たちは、ヴェンチャーズのエレキ音楽に熱中し、自分たちもこのような音楽を演じたいと思って、グループを作って邁進する、その一途な青春をこの映画は描いているわけである。 尾道三部作は、少年少女の初恋がテーマであり、シュールでファンタスティックな感じで彩られていた。この映画は、少年の初恋は出てきはするが、それが主な物語となるわけではなく、物語の本流はあくまでも少年たちのエレキ音楽にかける熱情である。一人の少年がヴェンチャーズの音楽に衝撃を受け、自分もそのような音楽を演じたいと思って、仲間を集めてロックバンドを結成し、ヴェンチャーズのナンバーを演奏することを目指す。彼らの努力は、周囲の温かい励ましもあって順調に実り、ついには大勢の観客の前で立派に演奏できるようになる。彼らが音楽家として自信を深める頃、彼らの共通の青春時代は終りを告げる。こうして別々の道に向かってそれぞれが旅立っていくところで映画が終わる、という具合に、音楽を通じて子供から大人へと移行していく少年たちの通過儀礼のようなものをこの映画は描いている。 この映画の中では、観音寺地方の方言が使われている。尾道三部作では標準語が話されていたが、この映画では意識的に方言を採用したと大林は言っている(「ぼくの瀬戸内海案内」)。たとえば「あんじゃる」という言葉がでてくるが、これは「気持悪い」という意味だそうだ。一方、観音寺のことを映画の中の少年たちは「かんおんじ」と発音していたが、これは「かのんじ」が本当だという指摘もある。 映画のはじめのところで、少年の一人に思いを寄せる不思議な少女が出てくる。その名前を「引地めぐみ」といい、少年たちは彼女のことを何故かフルネームで呼んでいる。引地という性は東北地方には多いが、四国にあるとは聞かない。それが何故出てくるのか、不思議な気がしないでもないが、映画の中では他にも、たとえば石川とか岡下とか郷田という性も出てくるから、別に不思議ではないのかもしれない。 青春映画らしく、性の表現もあっけらかんとしている。主人公の少年は、かわいい女の子と一緒にいると、自然とペニスが勃起してくるのを感じて大いに照れる。だが思春期の少年には、こういうことはよくあることなのだ、と映画は大らかに語る。そこにはいやみとか、いやらしさはない。 主人公の少年四人が、それぞれ違った性格に描き分けられている。もっとも印象的なのはお寺の倅だ。お寺の倅というのは、小さい頃から法事に馴れているせいだろうか、妙に世間ずれしている。まるで子供の姿をした大人のようだ。町で檀家の人と出会えば世間話をするし、仲間の少年たちに対しては庇護者然とした態度をとる。一方では、まだ子供らしさから抜けられない少年もいる。その少年は可愛い女の子に抱いた初恋の感情をどう処理していいかわからない。本当はそのほうが少年らしいのであり、お寺の倅のように、まだ子供のくせに妙に分別くさい方が不自然なのだろう。 |
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