壺齋散人の 映画探検
HOMEブログ本館美術批評東京を描く水彩画動物写真ブレイク詩集西洋哲学 プロフィール掲示板




それでもボクはやってない:周防正行



周防正行の映画「それでもボクはやってない」は、冤罪をテーマにした作品である。「シコふんじゃった」と「Shall we ダンス?」でエンターテイメント系の映画作家として人気のあった周防が、一転して日本の司法システムの人権軽視体質を批判した社会派の作品を作ったわけだが、テーマが重い割には、人々の関心を引き、映画はヒットした。恐らく周防と同じような問題意識を持つ人々が多かったと言うことだろう。冤罪の中でも痴漢をめぐるものは、男なら誰でも巻き込まれる恐れがあるわけで、その恐怖心の表れというか、一時、電車に乗るときには両手を上に持ち上げて乗ろうというジョークめいた合言葉が流行ったくらいだった。

この映画を見ると、一旦痴漢の被疑者になった男は、その容疑を晴らすのが殆ど不可能だという実感を持たされる。普通、刑事裁判においては、推定無罪の原則が適用される建前になっているが、痴漢の場合には推定有罪の原理が公然と働き、その推定を崩すのは至難の業である。ましてや、被害者に現場で騒がれて逮捕されたような場合には、その被害者の証言に迫真性があるだけに、疑いをかけられたものが、それを否定するのは不可能に近い。というのも、被害者は被害意識が強いために、被疑者の言い分をまともに聞こうとはしないだろうし、周りのものも被害者に同情して、被疑者の言い分を聞くことはない。警察や検察も同様で、被害者の訴えを重視して被疑者の言い分は殆ど考慮しない。裁判官とてもまた例外ではなく、被害者の訴えを重視するあまり、被疑者の言い分は、それがたとえ客観的な証拠を伴うものであっても、重要視しない。結局痴漢事件で訴追されたものは、99.9パーセント有罪になる。実に恐ろしいことなわけで、だからこそ世の男たちは、なんとかして痴漢の疑いをかけられないよう、全身全霊を込めて自己防衛したくもなるというわけである。

映画は、一人のフリーターの青年(加瀬亮)が満員電車の中で中学生の臀部を触った容疑で逮捕された、という事実から始まる。青年は警察署に連行され取調べを受けるが、その取調べというのは、映画が「人質司法」と言っているように、被疑者から心身の自由を奪ったうえで、一方的に追い詰めていくと言うものだ。こうしたやり方は、国際司法学会の見方では拷問に等しいとされることもあるが、日本の警察は、それが当たり前だと思っている。また、検察のほうも、警察の証拠調べを疑いのない前提として形だけの取調べをする。一応警察と検察では一定の役割分担があると言うことになっているが、この映画の中では、警察と検察とが協働して被疑者を有罪に追い込むという、いわばチームプレーのようなことをしているというふうに描かれている。

警察と検察が体現する国家権力は神聖不可侵のものだ。それに逆らう者には鉄槌が下ろされる。たった一人でそんな無謀なことをするのは気違いじみている上に、社会の秩序を維持する上でも許せないことである。だから、お上に逆らうと言うような馬鹿なことは考えず、自分の罪をあっさりと認めるべきなのだ。自分の罪を認めて謙虚な気持を示せば、お上のほうでもお目こぼしをする気持になるかもしれない。だからこそ、取調べに当たる警察官も、またとりあえずあてがわれた国選弁護士も、罪を認めた上で示談に応じるように薦めるわけである。にもかかわらず無実を主張しつづけるような者は、気違いと判断すべきである。

こんなシステムに絡め取られたら、そこから無事抜け出ることは殆ど不可能だ。それはどんなに有能で誠実な弁護士が介入しても変わらない。この映画の中では、役所広司演じる弁護士が、被疑者の無実を信じてなんとか無罪にしようと、それこそ渾身の努力を傾けるが、論理的には被疑者の無罪を根拠付けるに足る証拠を提示しても、裁判官の心証を有利に導くことは出来なかった。裁判官もまた、推定有罪の原理に立脚しており、それを覆すことは、裁判官自身にも、弁護士にも、なかなか出来ない業だからである。

もっとも、裁判官のすべてが検察寄りというわけではない。この映画に出てくる裁判官役は、途中で交代してしまうのであるが、最初に担当した裁判官は、被疑者の言い分をまじめに聞こうとする姿勢を持っていた、というように描かれている。ところが引き継いだほうの裁判官は、かなり官僚的な男で、法の正義よりも自分の都合を優先するような男として描かれる。弁護士はその裁判官に対して、かなり有力な証拠を示すのであるが、裁判官はそんな証拠より、被害者の少女の証言を重要視して、有罪判決を言い渡すのである。

こんな具合で、この映画は、国家権力の横暴振りと、その前に立つ人間の無力振りを、鋭い対比のうちに描き出している。こんな映画を見せられては、国家権力に歯向かうなどと言う無謀なことは考えないほうが身のためである、あるいはそれ以前に、冤罪に巻き込まれぬように自分の身を律することが肝心なことである、という気にさせられてしまう。そういう意味でこの映画は、国家と国民との間の望ましい関係を示してくれてもいるわけである。

この映画が公開された直後、周防が関りを持っていた痴漢事件の判決があり、痴漢事件としては珍しく実刑判決が下された。タイミングからして、それは裁判所の周防に対する意趣返しだとも言われた。周防はそれを気にして、被疑者の家族に謝ったそうである。

なお、この映画がきっかけとなったのかどうかわからぬが、周防はその後、司法の透明性を検討する法務省の会議のメンバーに呼ばれた。この会議は、検察による大規模な不祥事が起きたのを反省して、捜査の可視化など司法の透明性を検討するのが目的だったが、そこから出てきた結論は、捜査の可視化については最低限に抑える一方、司法取引など、司法の透明性を一層損なうような制度を新たに導入したものであった。日本の司法官僚組織が、自分にとって不都合なことも好都合に変え、いわば焼け太りする能力をもった稀有な組織だということを、あらためて世間に知らしめたわけである。こんな狡猾な組織と戦っても勝ち目はないと、誰もが感じたところだろう。





HOME日本映画周防正行次へ









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2013-2015
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである