壺齋散人の 映画探検
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井筒和幸「パッチギ!」:在日朝鮮人と日本人の軋轢



2006年の1月に公開された映画「パッチギ!」は、在日朝鮮人と日本人の軋轢を描いたものだ。要するに民族同士の軋轢がテーマなわけだが、軋轢といっても、日本国内を舞台としてのことだから、日本人による在日朝鮮人の迫害というような色合いが強い。だが、弱い立場のものが強い立場のものに一方的に迫害されているところを描いているかといえば、そうではない。この映画の中では、在日朝鮮人は、たしかに弱者としては描かれているが、卑屈な人間集団としては描かれておらず、差別をする日本人に立ち向かう勇敢な人間たちとして描かれている。

こういう設定の映画は、いまの時代環境では考えられないだろう。こんなものを作ったら、日本人の間から轟々たる非難の嵐が巻き起こり、上映するのは困難だろう。ましてや作った人間が日本人とわかったら、その人間は売国奴呼ばわりされるだろう。

そんな映画が作られて公開されたのが、今からたった十年ほど前のことだったとは、どうも実感がわかない。時代は急激に変った、と感じざるをえない。

この映画は、同時代ではなく1968年の日本を舞台にしている。その頃は、アメリカによるベトナムでの正義に反する戦争に対してアメリカ国内はもとより、世界中から異議申し立てが行われ、パリの学生反乱をはじめ、日本を含めた殆どの先進国でストリート・ファイトが展開されていた。中国では毛沢東が文化大革命を推進し、米ソ対立も先鋭化していた。要するに世界中が政治の季節だったわけだ。そういう時代環境を前提にして、日本国内の民族対立をこの映画は取り上げたわけである。

ところが、2006年の1月というのは、米ソ冷戦が終結し、イデオロギーの対立は過去のものとされ、世界は一つだという意識が充満していた。そんななかであえて日本国内の民族対立を、それも50年も前の時代に設定して、問題として取り上げたわけであるから、そこにある種のアナクロニズムを感じるのは、ごく自然なことだろう。

そのアナクロニズムを、日本人である井筒和幸が演出して見せたわけだが、その結果は、反発を受けるどころか大喝采を浴び、日本国内の映画賞を総なめにしたほどの評判となった。この頃にはいわゆる韓流ドラマが大流行し、日本人の韓国・朝鮮人に対する感情がかなり好意的になっていたこともあり、そのような現象につながったのかもしれない。

映画は、日本の高校生男子と在日朝鮮人女子の恋をめぐって展開する。彼らの恋が、その純粋さを通して、両民族の間のわだかまりを和らげるという筋書きだ。いわばロメオとジュリエットの21世紀極東版といったところだ。ロメオとジュリエットの世界では、イタリア人同士がいがみ合うのだが、この映画の中では日本の高校生と朝鮮学校の高校生とがいがみあい、とっつかみあいの喧嘩を繰り広げる。その挙句に朝鮮学校の高校生が日本人によって殺される。そこにいたって朝鮮人側の日本人への怒りは頂点に達するが、朝鮮の娘と日本の息子との間の愛が架け橋となって、両者のいがみ合いを和らげるのである。

映画の中では、「いむじんがん」の曲が流れ続ける。主人公の高校生がこの曲に愛着を感じていると言うことになっているからだ。この曲は分断された朝鮮半島の再統一を願って作られたというが、それがこの映画のなかでは、日本人と朝鮮人の仲直りへの願いをこめた曲として流される。それはこの映画の音楽監督のようなものを勤めた加藤和彦の意向によるのだろう。この映画にはほかにも、加藤の作った曲がいくつか流されている。

朝鮮人役を含めて、出演した俳優はほとんど日本人である。監督の井筒がなぜ日本人に朝鮮人を演じさせることにこだわったか、よくわからぬが、今だったら、この映画のなかのような朝鮮人の役を好んで演じる日本人俳優はおそらく見つからないだろう。時代は変ったのだ。

タイトルの「パッチギ」は、ハングルで「頭突き」という意味の言葉だそうだ。朝鮮人生徒が、日本人生徒と喧嘩をする際に、相手に頭突きを食らわせる。くらった相手はたまらぬとばかり降参する。その頭突きによるファイトを通じて、朝鮮人の心意気を感じ取ってほしいというわけなのかもしれぬ。



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