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滝田洋二郎「おくりびと」:納棺業の世界を描く



滝田洋二郎の映画「おくりびと」は、納棺業の世界を描いた作品だ。納棺というのは、葬儀にかかわる業務の一つで、死者を棺に納める仕事のことである。棺に納めるに当たって、遺体の清浄とか死装束を施すという作業を併せて行う。葬儀という儀式は、死者をあの世に送り出すということから、それにたずさわる人々はみな「おくりびと」と言ってよいのかも知れぬが、死者にかかわる葬儀の中でも、納棺という仕事をする人は、直接死者に触れるということから、この「おくりびと」という言葉がもっともふさわしいと言えよう。

この映画は、本木雅弘演じる音楽家が、音楽の夢破れて郷里に戻り、そこで従事するようになった納棺という仕事の意味合いみたいなものをテーマに描いている。本木は、この仕事にたまたまめぐり合い、なんとなく、というよりか歩合のいい収入に吊られて働き出すのだが、一つには仕事自体がなかなかハードであること、もう一つはこの仕事が社会的な差別の対象になっていることなどから、なかなか気分の整理がつかない。何度もやめようとしてそのたびに思いとどまり仕事を続けるのだが、何故そうするのか、映画からはストレートに伝わってこずに、見ているものに割り切れぬ思いをさせることがある。いやな仕事ならやめればすむものをこの男はやめないで続けている、かといって仕事が面白いとかやりがいがあるというのではない。仕事に対する男の姿勢は矛盾だらけだといってよいのである。

これは、やはりこの仕事が社会的な差別の対象になっていることから来ているのだと思う。男は妻(広末涼子)に対しても自分の仕事のことを言えずにいる。言えば馬鹿にされたり反対されると思うからだ。しかし結局はばれてしまい、妻からやめるように迫られる。ところが男はやめない。妻は怒って家を飛び出し、実家に帰ってしまう。普通は、ここいらであきらめて、仕事を変える気になるのだろうが、男は相変わらず仕事を続ける。だがそれは、仕事が面白いからではなく、収入のためが半分と、惰性が半分といった感じだ。そのうち妻が戻ってくる。妊娠していることを告げ、生まれてくる子どものためにも、この仕事をやめてほしいと改めて主張する。親がこんな仕事をしていたら、子どもが差別されたり、いじめられたりするから、というのが理由だ。

この映画の眼目は、男が最愛の妻からも理解されず、社会的な差別にじっと耐えているところを見つめるところにある。男にとってもっとも強烈だったのは、この妻から「けがらわしい」と罵られたことだ。妻から汚らわしいと言われねばならぬほど、自分は汚らわしいことをしているのか。男を演じている本木は、終始寡黙で頼りなさそうな表情をしているので、彼の顔からは怒りとか仕事への強いこだわりの感情は伝わってこない。ただ惰性に従って黙々と働いている、そんな印象が強い。

映画は、納棺という仕事とそれに従事する人々への差別感情を、繰り返し繰り返し表現する。差別する側は、その差別がごく自然な行いとしてなんらやましいとは思っていないし、差別される側は、自分が差別されるには相当の理由があるとしてそれを不当なことだとは思わない。差別はだから、する側とされる側との共同の営みということになっているわけである。

死者の葬儀は、どの民族においても、多かれ少なかれタブー視されていると思うが、日本の場合にはそれが極端な形をとりやすい。昔から、埋葬にかかわる仕事は汚穢に満ちたものとされ、それに従事する人々は隠坊と呼ばれてさげすまれ、厳しい差別にさらされてきた。このように葬儀を忌む文化は、日本の伝統的な宗教感情に基づいている。日本人は古来、死の穢れを極端に忌む文化を持っていた。神道は死の穢れをもっとも強く表現したものである。そのような文化的な背景があるために、この映画で描かれた「おくりびと」たちは、社会から厳しい差別を受けるわけであるし、それに対して彼らはまともな抗弁が出来ない立場にいる。彼らは絶対的な意味で、不浄の民なのだ。この日常世界に、彼らが心地よく生息できる余地はない。

こんなわけでこの映画は、かなり息苦しい世界を描いているわけだ。舞台が山県の地方都市ということになっているので、その息苦しさは更に強まる。東京のような大都市に住んでいれば、職業と日常生活の間に自分で境界を引くこともできようが、小さな地方都市では、そうした境界は曖昧になり、差別される側は、いわば公私にわたって全面的なスケールで絶対的な差別に直面することとなる。男の妻が産まれてくる子どものために、その差別を恐れるのは無理も無いのである。

本木は、死者を見続けているうちに、軽いノイローゼになって、鶏の死骸を見ても嘔吐を催すようになる。この心理的な機制はよくわかるような気がする。筆者も一時期葬祭業の一端にかかわったことがあるが、その頃には毎日死者の火葬現場を見ていた。すると、人間がみな骸骨のように見えてくる。筆者の従事していた火葬場では、台車式と言う方式を採用していて、焼きあがった遺体は綺麗な白骨となって炉からそのままの形で出て来るのだ。そんなわけで、電車の中で、前の座席に大変な美人が座っているのを見ても、その美人が骸骨の標本のように見えてくる。レストランで紳士が食事をしているところを見ると、頭蓋骨が顎をパクパクさせて、ものを食っているように見える。ある意味、異様な世界だ。

山崎務演じる納棺屋の社長が、本木のノイローゼの落ち着いた頃を見計らって、一緒に鳥の手羽先の肉を食うシーンが出てくる。手羽先といえども動物の死体の一部だ。これを拘りなく食えるようになれば、本木の死体アレルギーも消えるだろうという配慮が、そこからは伝わってくる。

映画の最後に、本木の父親が死んで、その遺体を息子の本木が扱う場面が出てくる。これは不幸な父子の和解を主なテーマにした場面なのだが、その和解を通じて、納棺という仕事へのこだわりを少しでもやわらげられたら、という配慮が働いているようにも、そこからは伝わってきた。



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