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原田眞人「わが母の記」:井上靖の自伝的小説を映画化



原田眞人の映画「我わ母の記」を見た。井上靖の自伝的小説を下敷きにしたものだそうだ。筆者は、井上靖の小説は若い頃に歴史ものを数編読んだきりで、彼が好んで書いたという自伝小説の類は読んだことがなかったので、この映画も、井上靖への関心の延長としてではなく、あくまでも母と子のあり方を描いた一篇の映画として受け止めた。

映画では、一人の作家が、幼い頃に両親に捨てられたとの、苦い感情を抱いているという状況設定から出発している。作家はとくに母親が自分を捨てたことに深いこだわりを感じている。捨てた、というのは、両親が幼い作家だけを日本に残して、台湾の職場へ転勤したということだったのだが。

それでも、小さな子どもにとっては、自分は両親によって捨てられたのだと受け止めずにはいられなかった。とくに、自分を捨てた母親に大きなこだわりを感じないではいられなかった。そんな母親が、年老いて痴呆症状を呈するようになる。作家は当初、その痴呆の意味するところが良くわからなかったが、それなりに受け入れて母親の世話をするようになる。

母親の症状は、次第に深刻になっていく。深刻になればなるほど、いままで意識の奥深くに抑圧してきたことを、無防備に漏らすようにもなる。作家はそんな母親の無防備さの中に、母親もまた、幼い自分を捨てたことに、深いこだわりを持ちながら生きてきたのだということを見出す。

母親の苦悩に共感できたことで、子は母親との真の和解を体験する。それはあまりにも遅すぎた和解かもしれないが、互いに生きている間に、たとえ一方の意識が損なわれた状態においてであるにしても、とにかく誤解が解けて和解することができた、それは人間として生きていくうえで、最低限必要な心の平安を、ひとりの人間が獲得できたというメッセージのようにも受け取れた。

筆者がこの映画にそれなりに感情移入したのは、やはり自分自身の母親との関係を思い出させられたからだ。筆者の母親も晩年は深刻な痴呆状態に陥った。そんな母親に対して筆者は、子に相応しい態度を取り続けていられたか、少なくともこの映画に出てくる作家ほどの礼儀を以て、母親の面倒を見続けたか。そんな反省の気持ちが沸々と湧き上がってきたのだった。

母親役を演じた樹木希林さんの演技が圧倒的だったので、つい自分の母親のイメージとオーバーラップしてしまったのかもしれない。



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