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行定勲「世界の中心で、愛を叫ぶ」:思春期の少年少女の恋愛



行定勲の2004年の映画「世界の中心で、愛を叫ぶ」は、思春期の少年少女の恋愛を描いたものだ。その描き方がいわゆる少女マンガ風で、折からの少女マンガブームに乗って大ヒットした。少女マンガというものについて、筆者は余り読んだことがないのでたいそうなことは言えないのだが、愛する少年少女に焦点をあてるあまり、主人公たちが世界そのものの全体を占めるようになって、残余の部分がまったく見えなくなる、ということに特徴があるようだ。この映画もその特徴を共有していて、主人公の少年少女に焦点をあてるあまり、世界には二人のほかに誰も存在しないといったありさまを呈している。題名は「世界の中心で」とあるが、実質的には、「私たちしか存在しない世界で」といった雰囲気が伝わってくる。

この映画は日本流の言葉の遊びにしたがって「せかちゅー」という略語で親しまれたが、「せかちゅー」というより「じこちゅー」と言ったほうがいい。それほど主人公たちは自己中心的に描かれている。こういう風潮を、世の爺さん婆さんたちは大いに嘆き、こういう惰弱な物語が横行するおかげで日本は亡国の道をたどっている、みたいな大げさな物言いをしているが、筆者は必ずしもそうは思わない。これも若者の自己表現の一つの仕方なのであって、大人になるための通過儀礼のようなものだと考えてやれば、自ずから心も大らかになろうというものだ。

描かれているのは、上述したように少年少女の悲しい愛の物語だ。というのは、彼らの愛は成就されずに、少女の死によって中断されてしまうのだ。その中断された愛を、少年のほうが忘れられずに、大人になってからもかつての愛の感情に縛られている。大体この映画は、大人になった主人公の男性が、自分の少年時代に体験した一少女との悲しい愛を回想するという形をとっているのだが、その回想のきっかけになったのは、婚約者の女性が失踪したことだった。普通ならその失踪した女性を追い求めるのが男の姿というべきなのに、この男は婚約者の行方を探す代わりに、かつての少女との関係を思い出すために、彼女と一緒に過ごした郷里の町へやってくるのである。そこで彼は、少女と一緒に過ごした昔の甘い記憶にふけるのだが、そのふけり方が、大人の男としてはあまりにも異様に見える。大人の男はいつまでも昔の体験にこだわってメソメソしたりしないものだが、この大人になった男は、いつまでも少年時代の呪縛から解放されていないのだ。

そうした男の姿に、作者は批判的な視線を向けることなく、ただひたすら男の感性に一体化して、彼の甘美な思い出を賞賛している。そこが少女マンガ的なのだ。少女マンガの作者は、今ではほとんど女性だと思うのだが、この物語の作者は男であり、この映画を作った行定も無論男である。男がこういう物語を作ったりまたそれを映画にしたりするのは、広い世界で日本だけではないか。そういう点では、最近の日本人は惰弱だと爺さん婆さんが言いたくなるのもある程度理解できる。フランス人は、男女の愛をこんなふうには描かないし(彼らはフィジカルに描く)、アメリカ人なら男女の愛をもっとドライなタッチで、しかも大人同士の関係として描くものだ。

少年少女の愛が病気によってそこなわれるというストーリーは、昔はやった「愛と死を見つめて」の焼き直しのようにも思える。そちらのほうは60年代に爆発的に流行ったものだが、やはり若い男女が自分たちだけの世界を作って生きていた。そういう点ではこの「せかちゅー」と同じようなプロットなのだが、そういう「じこちゅー」的な陶酔傾向を日本人は少女マンガが全盛になる前から持っていたようである。

筆者は老人ではあるが、こういう少年少女の感情もわからないではない。もしかしたら、筆者のような老人でも少女マンガ的なものに共感を覚えるのは、日本人全体が惰弱になったことの証拠かもしれぬ。



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