壺齋散人の 映画探検
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風船:川島雄三の映画



川島雄三は、戦後人情喜劇風のB級映画を作り続けていたが、1956年の作品「風船」で、一皮むけた。翌年には彼の代表作の一つ「須崎パラダイス」を作っており、この頃になって、映画の作り方に磨きがかかってきたということだろう。人情喜劇風な作風はあいかわらずだが、どこか考えさせるところを盛り込むようになった。

「須崎パラダイス」に先立って、三橋達也と新珠美千代をフィーチャーしている。クレジット上は、森雅之が主役だが、実質的には三橋と新珠のコンビが映画を引っ張っている。新珠は三橋の妾なのだが、三橋を心から愛しており、できれば正妻に収まりたいと考えている。三橋はまだ独身なのだ。ところが三橋には、新珠を正妻にしようなどというつもりは全くない。金でつなぎとめているだけだと考えている。そんな考えを思い知らされたばかりか、三橋の新しい情婦から侮辱されたりして、すっかり絶望した新珠は自殺してしまうのである。

映画は、その三橋と新珠がもつれあうさまを映すところから始まり、新珠の自殺で終わるのであるが、なぜ新珠が自殺せねばならなかったか。そこがよくわからない。新珠は、三橋からたびたび月々の手当てとしてかなりの額の金を受け取っており、自分が金次第の妾であることを納得しているはずだ。まあ、それでも本気で男に惚れることはあるかもしれない。だが、その男が心移りしたことをはかなんで、自殺することはないだろうというのが、普通の受け取り方ではないか。

近松の生きていた時代には、男女の心中や女の自殺が多かったというが、それは封建時代の人間関係に押しつぶされたものが、生きるすべを失った挙句のやむに已まれぬ選択だった。ところがこの映画の中の新珠は、旦那から捨てられたと思い込んで自殺するのである。もし、昭和の日本で、そんな自殺が異様に映らないとすれば、それは昭和が元禄とほとんど変わっていないことの現れではないか。

そんなわけで、かなり無理のある人間関係を描いている。無理といえば、森雅之演じるブルジョワも、やたらにヒューマニズムを振りかざすところが無視筋を感じさせる。かれはすべてをヒューマニズムという物差しで判断し、それに合致しないものは、家族といえども許さないのだ。昭和の時代にそんなヒューマニストが存在したものかどうか。

その森が、仕事にかこつけて京都をたびたび訪れる。むかし西陣の一廓で下宿していたことがあり、その昔の下宿先で、そこの娘と再会したりする。左幸子演じるその娘は、両親が死んだあと、弟を母親代わりに面倒見ている。弟の学資を稼ぐため、ヌードモデルをしてもいる。そんな娘に向かって森は、はずかしいことはやめなさいと説教したりするのである。

そういった一見深刻な事態が、川島一流の軽快なテンポにつれて展開していく、というより流れていく、といったさまがこの映画の印象である。なお、森雅之演じるブルジョワの名前は「村上春樹」である。これは全くの偶然だろう。


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