壺齋散人の 映画探検
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山田洋次「幸福の黄色いハンカチ」:ロード・ムーヴィーの名作



四十年近く前に「幸福の黄色いハンカチ」を暗い映画館の中で見たとき、筆者はなんともいえない強い情動に捉われ、闇の中を涙が流れてくるままにしたものだった。四十年ぶりに自分の家の中でDVD装置で見返したときも、やはり同じような情動に捉われた。今度は自分の家の中であるから、涙が流れるのを遠慮することはない。

この映画の何が、人をそんなに感動させるのか。考え出したらきりがないように思えるが、つまるところは人間のつながりの強さなのではないか。そんなふうに思う。この映画には、そんなに複雑なストーリーもないし、また人を深く考えさせるような思想的な色合いもない。ただひたすらに人間と人間のつながりの切なさを描く。その切なさが、見るものの心を捉えるのだろう。

映画自体は実にシンプルにできている。網走の刑務所から六年半ぶりに釈放された男が、夕張の炭鉱街に住んでいる元妻のところに戻る道筋の出来事を描いたものだ。男は途中で赤いファミリアに乗った若い男女と一緒になり、色々と逡巡しながら夕張に向かう。男は出所したときに元妻にはがきをだし、そのなかで、もしいまでも自分を待っていてくれるのなら、そのしるしに黄色いハンカチを竿の先に結び付けておいてほしい。もしそのしるしが見えなかったら自分はそのまま立ち去るから、と書いていた。

一旦はそう書いたものの、果たして元妻が自分を待っていてくれるだろうか。そう思うと男の心は揺れる。その揺れる心で男は昔のことを回想する。女と結ばれたこと、女が流産したことがもとで腹を立て馬鹿な喧嘩をしたあげく人を殺してしまったこと。女と別れたのは、女に別の幸せをつかんで欲しかったからだということ、そうした様々なことが心のスクリーンを過る。

こうしてようやく夕張にたどりついてみると、巨大な竿の作り物に満艦飾のように取り付けられた黄色いハンカチが風になびいているのを見る。その場面が圧倒的な迫力を以て、見る人の心に迫ってくるのである。

この簡単な要約からわかるとおり、この映画はロードムーヴィーの枠組みを借りている。ロードムーヴィーには、最後にたどり着く先がある。それはハッピーエンドだったり悲しい結末だったりする。どちらにしても、映画全体を完結させる為に必要な要素だ。この映画の場合には、男と女が過去のいきさつを乗り越えて、改めて結ばれるという点でハッピーエンドになっているわけだが、その結ばれ方が非常に人を感動させる。

題名にもある「幸福の黄色いハンカチ」は、男女の結びつきを象徴する小道具だ。優れた映画には、洒落た小道具を通じてその映画全体を一目であらわしてしまうような要素があるものだが、この映画の「黄色いハンカチ」はそうした小道具としては日本の映画史上もっともよくできたものといえよう。実際黄色いハンカチはその後の日本社会で、人と人との結びつきを象徴するものとなった。日本人の多くは今でも黄色いハンカチを見ると、人と人とのつながりの切なさを連想するのではないか。

もっとも黄色いハンカチのアイデア自体は、山田のオリジナルではなく、外国の小説から借りたそうだ。その小説ではハンカチではなくリボンが、暗号として用いられることになっていたのを、山田がこの映画のなかでハンカチに代えて、男女がそれぞれの思いを伝えあう媒体として使ったわけだ。しかし、彼らの再会の場を夕張の炭鉱に持ってきたのは、山田なりの同時代へのこだわりからだと思う。

高倉健は、この映画以前にはやくざ映画のスターとしてそれなりの人気を誇っていたが、この映画を通じて大きな飛躍をし、いわば国民的なスターへと転身した。その意味でこの映画は高倉にとって記念すべき映画になった。

共演者の武田哲也と桃井かおりの演技が良い。かれらのサポートがなければ、高倉健と倍賞千恵子が演じる男女の結びつきも強い光を放たなかったと思う。



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