壺齋散人の 映画探検
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河瀬直美「萌の朱雀」:家族の解体を描く



河瀬直美の映画には、映像をして語らしめるようなところがあって、言葉による説明を極力省く傾向がある。それゆえ観客には、映画の中の物語の進行がどうなっているのか、しばしばわからなくなることがある。「萌の朱雀」も、そういうわかりにくい映画だ。

この映画が描いているのは、奈良の過疎地帯に暮らす五人家族が解体してゆく過程なのだが、その家族の相互関係が、初めのうちはなかなかわかりにくい。夫婦がいて、二人の子供がいて、夫の母親がいる。その二人の子どもは、夫婦の子どものように描かれているのだが、そのうち年上の男の子が、父親らしい男をオンちゃんと呼び、母親らしい女をねえちゃんと呼ぶようになるので、この子だけは夫婦の子どもではないらしいとようやく気付く。それはいいのだが、父親の男が途中で消えてしまうことの原因がいまひとつわからない。この男は寡黙で、ほとんどしゃべらないので、何を考えているのかわからないのである。

映画は、前半では奈良地方の豊かな自然を背景にして、そこに生きる人々を情緒豊かに描き出すのだが、この父親の死をきっかけとして、家族がゆるやかに解体し、最後には、女が成長した娘を伴なって実家に帰る所で終わる。彼女らが去った後には、山の上の一軒家に、老いた女と若い男が残される。その男はどうやら、老いた女の別の子どもの子、つまり自分にとっての孫にあたるようなのだ。

この家族が何故解体しなければならなかったのか。映画は多くを語らないが、やはり過疎地における暮らしにくさが理由のようである。こんな過疎地帯では、子どもの教育にも差支えがあるし、また、夫に死なれた女が、未来に向けて希望も持てない。それゆえ老女のほうから嫁に向って、遠慮することはないから、外へ出て行ってもよいと持ち掛けるのだ。

最後に近い場面で、思春期を迎えた少女が、成人した少年に恋心を覚えたらしいことが描かれる。しかし少年のほうは、その思いに応えない。兄妹のように育ってきたと言うこともあるが、かれはむしろ少女の母親に恋慕の情を覚えているようなのだ。そんなわけでこの家族はかなり込み入った人間関係に陥っている。その人間関係は、一家の柱である父親が生きている間はなんとかうまくつながっていたが、かれが死んだ後は、もろく崩れ去っていくようなのだ。

そんなわけで、この映画にはストーリーの面白さはほとんどない。自然とか、そこに生きる人々の表情を、情緒豊かに映し出す映像に命がある。その映像は、独特の輝きをもっている。

映画の中では、竈とか蓄音機が出て来るから、時代設定はかなり昔のことなのだろう。その昔から、奈良地方の山村部では深刻な過疎化が進んでいたということだろう。映画の舞台は、五条警察署が出てくるところから、吉野に近い山中だと思われる。


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