壺齋散人の 映画探検
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野村芳太郎「事件」:大岡昇平の小説を映画化



野村芳太郎の1978年の映画「事件」は、大岡昇平の同名の小説を映画化したものだ。この小説はベスト・セラーとなり、筆者も読んだことがあるが、非常によくできた推理小説との印象を持った。その割に筋書きの詳細は忘れてしまったが、物語の展開にグイグイと引き付けられた興奮はよく覚えている。野村は、小説が刊行された翌年にこれを映画化したわけだが、その直前にはNHKがテレビドラマ化して放映していた。どちらも大いに反響を呼んだ。

映画では、丹波哲郎が主人公というべき弁護士を演じている。一方テレビドラマでは若山富三郎が同じ役を演じており、この二人を比較するのも大いに興味を引くところだ。若山のほうは、全体的に温和で人間味あふれた老弁護士との印象が強いのに対して、丹波のほうは、頭の切れるプロの弁護士といった風情を感じさせる。どちらがいいとは決められないが、それぞれ俳優としての持ち味を強く感じさせる。二人にとってこれが代表作と言ってよいのではないか。それほど、会心の演技となっている。

映画の作り方は、いわゆる法廷劇の体裁をとっている。これは、アメリカで大いに流行したスタイルで、法廷でのやりとりを通じて、事件の全容を明らかにしようというものである。だから、見ている者としては、弁護士や検事と同じ目線で事件の行方を追うということになり、そこに独特の臨場感が伴うわけである。

ある殺人事件をめぐって、被告が法廷で有罪を認めるところから映画は始まる。被告が有罪を認めているのだから、裁判上基本的な争点はなく、あとは量刑の問題だけだ。そこで弁護士のできることといえば、情状酌量を強調して量刑を軽くすることくらいである。裁判としては、ドラマ性に欠けるわけだが、そこを映画はドラマティックになるように工夫するわけである。言うはやすいが、なかなかむつかしいことである。

その事件を担当した弁護士は、被告の経済状態等からして国選弁護士だと思うが、丹波哲郎演じるその弁護士が、異常というべきのめり込みかたをする。なぜそんなにのめり込むことができるのか、それを佐分利信演じる裁判長が、下僚の裁判官たちに向かって注釈する。マスコミに取り上げられるような弁護をすれば、弁護士として名が売れるので、それを狙っているのだというわけである。

もっとも丹波哲郎演じる弁護士は、そんな打算で弁護している様子は見せない。あくまでも、弁護士としての良心に従っているだけだと自分にも言い聞かせ、他人にもそうアピールする。その彼が、弁護の戦略としてとった方針は、被告には殺意はなく、したがって殺人罪を適用できないとする主張だった。だが、事件に殺意があったかどうかは、当の被告の意識でもはっきりしない。そこを弁護士は、さまざまな状況証拠を積み上げることで、結果として殺意はなかったというふうに導いて行く。それに対して、検事のほうは有効な反論ができない。というのも、捜査過程での検察側のやり方にかなりの逸脱があったと思わせるところが多かったからである。

だからこの映画のポイントは、殺意の認定をめぐってなされるさまざまな裁判手続きということになる。被告本人でさえ明らかではない殺意の存否について、それをなかったと裁判上断定させるのは、なかなかできないことだ。それを丹波哲郎演じる弁護士は、巧妙な証人尋問を通じて、自分の望む方向へと誘導してゆき、ついには殺人については無罪を勝ちとるのである。

弁護士は自分の推測が全面的に正しいとは言えないかもしれぬとは、薄々感じている。しかしそれを強く主張するのは、弁護士としての良心もさることながら、刑事裁判とは、検察と被告(=弁護士)とのある種の戦いだと言う確信があるからではないか。その戦いに勝つことが、刑事弁護士としての勲章でもあり、また誇りなのだ、という気概が伝わってくる。この映画の丹波弁護士は、別に被告に深く同情しているわけではない。彼を弁護に駆り立てるのは、被告への同情なのではなく、弁護士としてのプロ意識なのだ。

その、弁護士のプロ意識のようなものは、若山富三郎よりも丹波のほうが強く感じさせる。法廷での彼の表情は、獲物を狙う猛禽類を思わせる。それに比べると若山のほうは、被告への人間としての同情が感じられる。どちらもそれぞれ人をしてうならせる演技であり、甲乙つけがたいというべきだろう。

映画の作り方として感心させられるのは、法廷でのやりとりを通じて事件の概要を解明することを基本としながら、事件にかかわった人間たちのかかわりあい、それを人間模様と言ってもよいが、それを淡々とドライに描きながら、肝心な被告の殺意なり被害者への感情なりについては、獄中での被告の回想という形できちんと伝えていることである。それゆえ見ているものとしては、事件の全容を立体的にとらえることができるわけである。これは推理小説のドラマ化としては、心憎い目配りというべきである。



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