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野村芳太郎「配達されない三通の手紙」:エラリー・クィーンの小説



野村芳太郎の1979年の映画「配達されない三通の手紙」は、イギリスの推理小説作家エラリー・クィーンの小説を映画化したものだが、日本映画としてはどうもしっくりしないところがある。筋書きが日本人離れしているし、人物の醸し出す雰囲気が日本人らしくない。そのため映画の観客は、どこか別世界の出来事を見せられているような感じになる。娯楽作品としては、別にそれでも不都合なことはないわけだが、野村と言えば社会派映画で通ってきたこともあって、どうもすっきりしない印象を与える。

長州の大富豪の家族に起こったことを描く。そこの娘が素性の卑しい男と結婚するが、その男には別に女がいた。その女が新婚早々の夫婦のところに押しかけてくる。その女は男の妹を名乗っているが、実は情婦だということを見抜いた妻が、夫に復讐をする。その復讐というのは、夫がかつて抱いた殺人計画をそのまま実行して、夫の情婦を殺そうというのである。このもくろみは成功し、夫の情婦を殺すことができた。しかし、その殺人の容疑を夫がかぶることとなり、妻は妻で良心の呵責にさいなまれて死んでしまう。夫の前には本物の妹が現れて兄を救おうともするが、兄は一人で罪をかぶって自殺してしまう。

というわけで、筋書きがやたらと複雑な上に、それが大富豪の豪華な家のなかで展開されるので、どうにも作り物のようで、見ているほうでは、複雑なパズルを解かされるような感じになるわけである。作り物のようなわざとらしさは、色々なところで感じさせられる。映画のはじめのほうでは、主人公のノリコという娘は、婿に逃げられたショックで心を病んでいることになっているが、それがいとも簡単に男とよりをもどし、めでたく結婚する。この変わり身の早さというべきものが、いまひとつ自然ではない。

彼ら新婚夫婦のもとへ男の妹を名乗る女が現れる。その女が実は情婦だったというのはわかるような気がするが、その妹へ兄である男が三通の手紙を書いていたというのがよくわからない。この手紙はこの映画の最大のポイントなので、種明かしは最後になされるのであるが、それまでの間は、この手紙がどういう目的で書かれ、またなぜ投函されずに保存されていたのか、そこのところがまったく見えないせいで、観客は歯がゆい思いをさせられる。その歯がゆい状態のままで、いきなり毒殺のシーンが現われ、それをきっかけにして映画が急展開するので、いよいよわけがわからなくなってしまう。

そのわかりにくいわけを、最後になってノリコの妹とアメリカから来た遠い親戚の青年が、ノリコの許嫁の力も借りながら種明かしをする。手紙は、ノリコの夫が実の妹にあてて書いたもので、それは情婦殺しの計画をカムフラージュするのが目的だったということがわかる。それを妻のノリコが勘違いして、自分を殺す計画だと受け取り、その意趣返しのために計画に乗ってやろうと決意する。しかし殺されるのは自分ではなく、妹を名乗る情婦のほうだというわけである。

そんなわけで、この映画はわかりにくい仕掛けが幾重にも張り巡らされていて、生来淡泊な日本人としては、咀嚼するのが大変である。

舶来のいわゆるバタ臭さを感じさせるなかで、ひとつ日本らしいのは、情婦が北海道の貧しい家に育ったところが紹介される場面だ。貧しさのなかで育った女は、やっとつかんだ幸せを大事にして、身も心も男に捧げていたのを、無残にも捨てられてしまう。それでもあきらめきれず、新婚早々の男のもとに押し掛けたはいいが、その妻によって殺されてしまうのである。彼女の母親を演じる北林谷栄が、娘の運のなさを嘆くシーンが出てくるが、こればかりはいかにも日本的な情緒に染まっていた。それ以外は、いかにも作り物という感じを受け取る。



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