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胎児が密猟する時:若松孝二のサド・ピンク映画



1966年公開の映画「胎児が密猟する時」は、前年の「壁の中の秘事」と並ぶ若松孝二のピンク映画の傑作である。テーマはサディズムだ。サド趣味の男が少し頭の足りない女をマンションの一室に連れ込み、そこで二人きりになったのをいいことに、女に対して暴虐の限りを尽くし、サド趣味を満足させるというものだ。その淫乱で残忍なところは、同じ趣味を持つ人々にとどまらず、多くの人々を魅惑する。

とにかく迫力満点だ。女を裸にして、鞭で体じゅうを打ったり、カミソリで肌を削ったり、ぞっとするようなシーンが繰り広げられる。それでいてあまり残酷さが感じられないのは、女の表情に本物の恐怖が感じられないためだろう。むしろ女は虐げられることに快楽を感じているようにも伝わってくる。

男は女を身体的に征服するばかりではない。精神的にも征服する。女は男の命令に従って犬になったり、豚になったりする。そんな女を男は、休む暇も与えずに責め続ける。それでも女には疲労の色が見えない。どんなに虐げられても、女は耐え続けるのだ。そのさまを見ると、この女は不滅の身体と永遠の精神を持っているように感じられる。いくら虐げても不死鳥のようによみがえるのだから、サディストの男にとっては、究極のパートナーだ。

さすがに痛めてばかりもいられないので、時には食い物を与えることもある。それを女は豚のようにムシャぶり食う。食ったら糞が出るのが理屈だと思うが、この女は糞を出す様子がない。食ったものはすべて腹の中であとかたもなく消化されてしまうようなのだ。一方、時たまは風呂桶に使って体を温めることはある。いくら責めることが目的の身体であっても、清潔であることは大事なことだといわんばかりに。

こういうタイプの映画は、男がひたすら女をいじめるところを延々と映し出すだけでも結構見られるものだが、この映画はそれに加えて、男にある陰影を持たせている。この男は生きていることに価値を見いだすことが出来ないのだ。むしろ自分が生きていることに罪の意識を感じている。そんな男の意識を物語るように、映画の冒頭ではこの世に生まれてきたことを呪うヨブ記の中の言葉が紹介されているくらいだ。その言葉はまた、自分を生んだ母親を呪ったボードレールの詩の一節を思い出させる。

こんなわけだからこの男は、およそ赤ん坊が生まれてくることにも拒否感を抱いている。別れた妻が子どもを産みたいと言ったときには、絶対に許さないと言い、それがもとで妻との関係が破綻したということになっている。

男にそういう背景を持たせることで、映画に深みを与えようとしたのだろうか。もしそうだとしたら、その目論見はあまり功を奏していないと言わねばなるまい。だいたいこういうタイプの映画にはそんな細工はかえって邪魔なのだ。サディストが獲物の女を相手に、自分の獣のような欲望を発散させるところを、ありのままに描き出すだけでよい。むしろその方が迫力を増すというものだ。サディズムに心理的・病理的な背景を求めることは、とりわけこういうタイプの映画の場合には、あまり生産的とは言えないのである。

ラストシーンが、女が男を殺すことで終わっているのはまあ許せる。映画にはどうしてもラストシーンが必要なわけだし、この映画のようにたった二人しか登場人物がいない場合には、二人のうちどちらか一方を消すことしか、ラストシーンとしてはあり得ないと思うからだ。どちらかを消すとしたらやはりサディストの男ということになろう。女を殺してはあまりにも味気ないし、第一それではサディストの勝利を賛美することになりかねず、観客の道徳的な感情とも相容れないと思う。

女による男の殺し方に迫力がある。女は自分を縛っていたロープを、男から奪ったナイフでほどき、そのナイフで男を突き刺すのだ。それも滅多切りである。そこでそれまでの男と女の立場が逆転する。男を切り刻む女がそれに快楽を覚え、一方切り刻まれる男の方は、死の快楽を味わうことになるのだ。

こんな具合でこの映画は、色々な点で見所がある。けだし傑作というべきである。



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