壺齋散人の 映画探検
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ワンダフルライフ:是枝裕和



1998年の映画「ワンダフルライフ」は、是枝裕和の二作目だが、後年の映画とは違って、物語性が強い作品だ。それも、この世ではありえないことを物語っている。というのも、死者があの世へ旅立つにあたっての通過儀礼のようなことをテーマにしているのだが、そうした通過儀礼は、この世では、想像の世界ではともかく、現実の世界ではありえないからだ。

死者があの世へ旅立つにあたって、地獄の入り口で閻魔大王の誰何をうけるという考えは、仏教の言い伝えとして、日本人にはなじみの深い物語だ。死者は、その生前の行いに応じて評価され、地獄に落ちるか極楽に上るか、どちらかを言い渡される。その場合の評価の基準は、生前にどういうことをしたかということだが、高く評価されるのは、おおむね他人への善行であり、非難されるのは、我欲を始めとする悪行である。

この映画の中でも、死者たちは誰何されるのだが、それを行うのは閻魔大王ではなく、人間である。もっとも、生きている人間ではない。すでに死んでしまった人間である。その死んでしまった人間が、死んだばかりの人間を誰何する。それはしかし、その人間を評価するためではない。かれが死んだばかりの人間に求めるのは、生きていた間に最も印象に残った事柄を一つだけ言いなさいということだ。それに基づいて、彼らが映画を作るから、それを見て欲しい。それを見ながら感動した所で、その感動だけを抱いてあの世にいくように定められている、というのである。

死んだばかりの人間が、昔に死んだ人間、つまり死者としては先輩格にあたる人から、あの世に旅立つにあたってのイニシエーションを受けるというのが、この映画の物語設定なのである。かなり奇抜な設定であるから、閻魔大王の話になれしたしんだ日本人にも、わかりにくい設定と映ったと見えて、興行的には、日本では成功しなかった。しかし欧米ではかなり高く評価された。それはやはり、死者のためのイニシエーションをテーマにしたことの意外さが働いたのであろう。

このイニシエーションは一週間を単位としている。直近に死んだものたちが月曜日にイニシエーション会場に招かれる。それを先輩の死者たちが面接して、水曜日までに、自分の生きていた時に一番印象に残ったことを決定して、申告してくださいと言い渡す。死者たちはそれぞれ、面接官の助けを借りながら、自分の過去から、もっとも印象深かった事柄が何だったか、一生懸命思い出そうとする。22人の死者たちについてそれぞれこの作業が行われる。かれらが思い出すことは、人それぞれだ。少年時代の楽しかった出来事や、戦後のひもじい時代にうまいものを食えた時の喜びや、失恋の苦い体験などだ。

なかには、なにも思い出したくないというものもいる。そういうものは、あの世に旅立つための用意が整わないので、いつまでもこの世とあの世の境で迷い続けなければならない。実はそういう人々が、面接官をつとめているのだ。彼らの立場はだからかなり奇妙だ。一方では、職務柄死んだ人間たちに一つだけ印象深いことを選ばせなければならないのに、彼ら自身はそれを拒否した過去をもつので、それを拒む死者たちを責めるわけにもいかない。かれらにできることは、死者たちが自主的に自分の思い出を選択する手伝いをすることだけだ。

かくして、それぞれ選択を終わった死者たちは、それぞれ自分用に作られた思い出のアルバムとなる映画を与えられ、それを週末の土曜日に、面接会場の一角で見せられる。その面接会場というのは、廃校となった学校の建物を思わせる。ともかく死者たちは、自分の印象に残った思い出のシーンを、スクリーンで見ながら、感動が窮まったところで、その思い出だけを抱いてあの世に旅立つのだ。あの世がどんなところかについては、映画は語らない。

映画にはこのほか、面接員の担当した死者が、自分のかつての恋人と結婚していたことを知り、それが契機となって自分自身遅ればせながら思い出を選び、それによってあの世へ旅立つというサブプロットもある。また、22人の死者たちのなかでひとりだけ、最後まで思い出選びを拒否した若者がいて、その若者が面接員の仲間入りするというような話もある。

そんなわけでこの映画は、かなりシュールな事柄をテーマにしているのだが、その割にはリアルに見える。それぞれの死者たちの語る話が、現実そのものだからだろう。




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