壺齋散人の 映画探検
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誰も知らない:是枝裕和



是枝裕和の映画「誰も知らない」は、児童遺棄(子供置き去り)を題材にしたものだ。1988年に実際にあった事件をもとに2004年に映画化した。親が子供を見捨てたおかげで、取り残された子供たちが悲惨な境遇に陥り、そのあげく兄弟の一人が死んだという事件だったが、是枝は詳細については脚色を加えながら、事件の骨格をほぼそのまま再現したという。

男を作った母親が子供を棄てて家を出た後、残された四人の子供たちが、十二歳の長男を中心に自力で生きようとするが、世の中はそう甘くはない。子供たちだけの力で生き残ることは不可能に近い。彼らを待っている運命は、決して明るいものではない。実際子供のなかで最も弱いものが死んでいくのだが、とりあえず生き残った子供たちにも、いずれ同じような運命が待っているに違いない。しかし、映画のなかでそんなことを、理屈めいて描いても仕方がない。映画は、理屈などを抜きにして、実際に起きていることや、これから起るだろうことを、虚心に描き出すだけだ。そのことによってむしろ、事柄の本質が見えてくるのではないか。この映画は、そんな自制心のようなものを感じさせる。

映画の中で子供の虐待や置き去りが描かれたことはあった。たとえば新藤兼人は永山則夫の半生を描いた「裸の十九歳」の中で母親に置き去りにされた子供たちを描いたし、野村芳太郎の「鬼畜」は、母親によって愛人に押し付けられた三人の子供たちが、愛人の妻によって虐待されるところを描いた。しかし、「裸の十九歳」にしろ、「鬼畜」にしろ、子供たちが置き去りにされた背景には、それなりの事情があったことになっている。ところがこの「誰も知らない」では、母親は新しい男が出来たというだけで、簡単に子供を棄ててしまう。そこのところが非常に短絡的というか、不気味さを感じさせる。この映画を見ていると、親子とは一体何なのかと思わせられずにはおれないし、それ以上に、こんな事態が公然と放置されている社会というのは一体何なのかとも考えさせられてしまうのである。

事件発生後から十五年も経ってこれを映画化したのには、それなりの事情が働いているのではないかと、思わせられる。もとになった事件が起きた1988年頃は、日本社会はまだバブルで浮かれていた時期で、暗い話とは無縁であるかのような雰囲気が充満していた。だからこんな事件は、身勝手な母親の犯罪的な行為であって、社会がどうのこうの言うような性質の事柄ではない、と受け取られるところがあった。そういう雰囲気が充満しているところでは、子供の置き去りを正面から問題に取り上げようという発想などは相手にされなかっただろう。ところがそれから何年も経たないうちに、日本社会が二十一世紀に突入したということもあって、児童の虐待事件が頻発するようになった。社会にゆとりがなくなったことがその大きな要因だと言われもしたが、要因はともあれ、類似した事件があまりにも多く発生するようになって、子供の置き去りとか虐待が深刻な社会問題として意識されるようになった。是枝はそうした社会の変化を踏まえてこの映画を作ったと言えるのではないか。この映画は非常に大きな反響を生んだが、それには社会の側における一定の変化が作用していた、少なくともそのようには言えると思う。

映画の中の母親はとことん無責任な女として描かれている。四人の子供がいて、そのうち上の二人は学齢期にあるが、学校には行かせない。二人とも学校に行きたいと訴えているにもかかわらず、学校へなんか行く必要はないといって受け付けない。そんなわけだから、近所には子供のいることを気づかれないように、子供が大きな声で騒いだり、他人に姿を見られることを禁じる。映画の舞台になるアパートに引っ越してくる際に、子供をトランクに詰めて、まるで荷物のように扱うのは、子供の存在を人に知られないためだ。

その母親が男を作って家を出てゆく。そして十二歳の長男に、兄弟の面倒を押し付ける。最初のうちは、為替で現金を送ってくることもあったが、そのうち一切連絡しなくなる。長男は、初めの頃はけなげに同胞たちの面倒をみるが、そのうち母親に棄てられたことを自覚するに至り、ぐれかかったりもする。だがこの長男は、人間の出来がいいようで、最後まで長男としての自覚を捨てない。しかし人間は自覚だけでは生きていけない。母親からの仕送りがなくなり、経済的に困窮してくると、次第に追い詰められてゆく。時には母親のかつての相手の男を訪ねて金を無心したりするが、全く金のあてがなくなってくると、水道を止められたり、食うものにも困るようになる。

長男がたまたま知り合った不登校の女子生徒が、子供たちの友達となる。子供たちは社会から孤立して、自分たち以外には話す相手もいなかったのである。その女子生徒が、子供たちの困窮を見て何とか金を工面してやりたいと考える。そこで彼女は駅前に立って、通勤客を相手にいわゆる援助交際をする。そうして得た金を長男に渡そうとする。事情を知っている長男はその金を受け取らない。それは、彼にとって彼女が大切な存在になっているからだ。この場面は、この映画の中でのもっとも泣かせるシーンのひとつである。

しかし、この映画は人を泣かせるというよりも、人を切ない気持にさせる、というべきだろう。ストーリーらしいものは殆どない。置き去りにされた子供たちが、自分たちだけで身を寄せ合って必死に生きているところを映し出しているだけだ。二時間以上にも渡ってそんな光景が描かれてゆくわけだから、見ているほうは実に切ない気分にさせられるのである。

しかも、この映画には最後まで救いというものがない。一番下の妹が、事故がもとで大怪我をして死にそうになる。長男は必死になって救おうとするが、救急車を呼んで大人に助けを求めるということができない。せいぜい薬を万引きするくらいなのだ。結局小さな妹は死んでしまう。長男は女子生徒と二人で妹の遺骸をトランクにつめ、妹があこがれていた羽田空港の地面に埋めてやる。そして妹を埋めた後、長男は生き残った同胞たちとともに、さらに生き残ってゆこうとする。生き残る為にはどうしたらよいのか、幼い彼等にその智恵は浮かばない。また周囲の大人たちの誰も彼等に手を差し伸べようとはしない。その絶対的な彼らの孤立を浮かび上がらせるようにして、映画は終わる。そのラストシーンの印象的な映像を見せられながら、観客は呆然として取り残されたように感じるのである。





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