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西川美和「永い言い訳」:自分自身への言い訳



タイトルにある「永い言い訳」とは、他人に向かっての言い訳と言うより、自分自身への言い訳のように、この映画からは伝わってくる。何についての言い訳か。自分が生きていることの、自分自身への言い訳である。何故、そんな言い訳をしなければならなくなったのか。自分自身、自分が生きていることの意味を見失ったからだ。

結局、この映画の主人公は、最後までその意味を見つかることができなかったようだ。それでこそ、言い訳は永くなったのであろう。時間がかかることは、「長い」という言葉であらわすのが普通だと思うのだが、わざと「永い」と書くことには、時間に区切りが見つからないことを、あらわしているらしい。

映画の主人公は、本木雅弘演じる作家である。妻がいるのだが、彼女とは心が通じ合っていない。そのためこの作家は、他の女と浮気をしている。妻がいない留守に、自分の家にその浮気相手を入れて、妻が寝ていたベッドで、セックスをする。そのセックスの最中に妻は、旅行で乗っていたバスが事故を起こして、死んでしまうのだ。

もともと心の通じ合っていなかった妻だが、死なれてみると、なんだか心のどこかに穴が開いたように感じる。取り残されたような感じなのだろう。そんな男に愛想をつかして、浮気相手は去ってしまう。そこで男はますます取り残された感じになって、自分の生きている意味さえ見失ってしまう。映画は、そんな男が、自分自身に向って、自分が生きていることの意味について、言い訳ができるように、努力するプロセスを描いているのだ。

その努力は、自分がこの世界で、ひとかどの役に立っていると納得できるようになりたいという形をとる。男は、他人に対して献身的になることで、自分が役に立っている実感を得ようとするのだ。

こうして男は、幼馴染の男、その男の妻が彼の妻と一緒に旅行にいって、一緒に死んだのであるが、その男の子どもたちのために、母親代わりをつとめてやることで、ひとかどの役に立つ人間になろうとするのである。子どもたちは、中学受験を控えた男子と、まだあどけない女子である。父親は長距離トラックのドライバーをやっていて、しょっちゅう家を空けなければならないし、子どもたちの面倒をまともに見ることができない。そこで男が母親代わりを買って出るわけだ。

男は、子どもたちの面倒を見ているうちに、子どもたちに愛着を感じるようになるし、自分のしていることが、世の中の役に立っているという実感も得られるような気にもなる。しかし、そのことで自分自身どれほど自分を納得させることができたか、それは曖昧である。

映画は、男が子どもたちとの交流を一編の小説に仕立て、そのことで、作家として再出発したことができたというふうにまとめているが、そのことで、かれの自分自身に対する言い訳が済んだかどうかは、触れていない。

本木雅弘演じる男の表情が、なんともユニークだ。男として生きることの情けなさがよく出ている。こういう表情は、男の視点からはなかなか見えないもので、女流監督だからこそ、男にこんな表情をさせることができたのだろう、と思わせられる。

こんなわけでこの映画は、恋愛の要素は全くないし、かといって壮大な物語の要素もない。どこにでもありそうな、自信に欠けた情けない人間を描いているという点で、日常がそのままスクリーンに移行したような映画だ。



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