壺齋散人の 映画探検
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若松孝二「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」



若松孝二は晩年に一大ブレイクし、「キャタピラー」や「千年の愉楽」といった傑作を作っているが、「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」は、その若松自身が自分の映画人生の総決算だと言っている作品である。自分の総決算と位置付ける作品になぜ「連合赤軍」を選んだのか。若松は多くを語っていないようだが、それ以前の連合赤軍の描き方が警察目線に立っていたことへの抗議の意味を込めていたとも考えられる。それほどこの映画は、連合赤軍の立場に立っているところが感じられる。もっとも連合赤軍のやったことは、誰も擁護はできないし、また当事者の意識が混濁していたとしか考えられないほどお粗末なものだったので、若松といえども彼らに感情移入することはむつかしかっただろう。

筆者がこの映画を見て感じたことは、若松の意図はどうであれ、日本的組織の一つの典型、あるいは日本人の生き方の範例のようなものが示されているということだった。連合赤軍は凄惨なリンチで十数名の仲間を殺したわけだが、そのリンチのあり方と言うのが、日本人の集団に固有ないじめの構図を感じさせる。いじめと言うのは、なにも日本人に固有の現象ではないが、日本人の場合には、何人かの集団ができるとかならずそこに力の優劣が生まれ、強い者が弱い者をいじめるという構図が出来上がる。これは子どもの頃から死ぬまでを通じて、あらゆる日本人がかかわりあうようになることで、日本人は人生の様々な局面で、いじめを身を以て体験するように出来ている。子どもの社会では学校での陰湿ないじめがあるし、大人になってからは会社組織のなかでのパワハラがあるといった具合だ。一昔前には、軍隊組織がいじめの大規模な舞台になっていた。

この映画のなかで展開されるリンチを見ていると、まさに日本的ないじめを極端にしたものだとの印象を強く受ける。三十名前後の集団のなかで、強い者が権力を持ち、弱い者を抑圧する。その弱い者いじめを周囲のものは何等の抵抗もなく許しているばかりか、自分自身もそのいじめに加わる。自分が強い者の立場になることで、弱い者をいじめる快感を得ようとする魂胆もあるが、それ以上に自分が弱い者の立場になるのが怖いのだ。だから、集団のメンバーは、強い者に一体化して、自分も弱い者をいじめる立場になりたいと願う。いじめられる立場になることは、この集団の場合、単に暴力を受けるだけでなく、この世から消されてしまうことを意味しているのだ。

というわけでこの映画は、リンチと言う陰惨ないじめを通じて、日本的組織の病的な体質を浮かび上がらせているところがある。

この映画は三時間にあまる長さだが、一応連合赤軍のたどった軌跡を時間を追って描いている。ブントから赤軍派が分離し、それに革命左派(京浜安保共闘)が合流して連合赤軍が生まれるや、空想的な武力闘争路線をとって過激派してゆく。その過程で連続リンチ事件を起こすわけだが、初めは裏切り者への制裁というかたちをとったものが、次第に仲間内のいじめという形にかわってゆく。それを主導したのは赤軍派出身の森恒夫と革命左派出身の永田洋子だ。彼らの悪行は裁判を通じて明らかにされておるところで、若松はそうした記録をもとにこの映画を再現したのだろう。実録というからには、史実にかなり忠実であることを、若松自身強く意識しているに違いない。

組織は警察に包囲され、森や永田がつかまったあと九人の小集団になるが、そのなかの更に五人が最終的に残って浅間山荘事件を引き起こす。映画は、浅間山荘に向かう五人を警察が追うシーンを描いているが、警察はすぐそばまで追いついていながら、かれらをむざむざ浅間山荘に入れてしまう。そのシーンを見せられると、追いかけている間に、たとえば足を銃撃するなど、有効な方法をとっていたら、これほど大きな騒ぎにはならなかっただろうという気持ちにさせられる。その点、日本の警察の変な寛大さを感じさせられるところだ。

映画はラストシーンに一時間ほどかけて、連合赤軍の最後のメンバーが警察相手に派手な立ち回りを演じるところを描く。その描き方の中に、日本の警察への嘲笑と、それに立ち向かう若者たちへの聊かの同情が感じられないこともない。

この立ち回りの部分があるおかげで、映画全体の印象がやや拡散している印象があるが、映画の眼目はやはり、彼らが繰り広げる仲間内のリンチにある。彼らがリンチで殺した仲間は12人にも及ぶ。その大部分は大した理由があるわけでもない。たまたま強いものがいて、弱い者がいた。そこで強い者が意味もなく弱い者をいじめてみたということでしかない。とくに森と永田は、人殺しを趣味とする異様な生き物で、彼らがリンチで仲間を殺すことには何らの合理的な理由もない。かれらは趣味で人殺しを楽しんでいるというふうに映画からは伝わって来る。

森は自分の人殺しを正当化するために理屈を弄するが、その理屈たるや聞くに値しないようなもので、たわごとにしか聞こえない。永田にいたっては、主に他の女性をターゲットにするが、それは彼女らへの嫉妬から来ているという風に露骨に描かれている。

実際この映画の眼目は、リンチの凄惨さを描くことに尽きていると思うので、なにも三時間以上の長さを必要とするとは思えない。もっとコンパクトな描き方があったはずだ。それをこんなにも長引かせたのは、連合赤軍に対する若松の独特の思い込みのなすところなのか。



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