壺齋散人の 映画探検
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瀬々敬久「友罪」:救いのない人生



瀬々敬久の2018年の映画「友罪」は、過去の辛い体験にさいなまれている人々のトラウマ的な感情をテーマにした作品だ。そういう点では、心理劇といってよいが、単なる心理劇ではなく、ドラマティックな要素も持っている。見る者に考えることを迫る作品でもある。

主要な登場人物は二人の青年。二人とも偶然、町工場に同時に雇われる。その二人、益田と鈴木のうち、益田(生田斗真)のほうは元雑誌記者ということになっているが、どういう事情でそれをやめて、不慣れな肉体労働に身を投じたか、明示的な説明はない。鈴木(瑛太)のほうは旋盤工の経験があるということになっており、この種の労働には慣れているようだが、どうも人間嫌いなようで、同僚から嫌われる。

彼らは過去の暗い体験に悩まされているということが次第に明らかになってくる。益田のほうは、高校時代に同級生のいじめに加担して、その同級生を自殺に追い込んだという過去があり、そのことに今も悩んでいる。一方鈴木のほうは、人格的に破壊衝動があって、それに駆られるようにして、十四歳の時に小さな子どもを、無残な仕方で殺してしまったという過去がある。かれはその破壊衝動をいまも恐れていて、それが他人との親しい関係を妨げているのだ。しかし益田の働きかけもあって、次第に心を開いていく。

益田には親しい女友だちができる。その女友だち(夏帆)は悪い奴らの餌食にされて、ポルノビデオをとられた過去があった。その悪い奴らはいまだに追いかけて来て、彼女を脅かすのである。その彼女を、益田が救う役割をしたことで、二人は急に接近するのだ。しかし、色々な事情が働いて、二人が結ばれることはない。

もう一人、過去にさいなまれている人間が出てくる。タクシー運転手の山内(佐藤浩市)だ。山内は、自分の息子が交通事故を起こし、小さな子どもを三人も死なせたことに対して、父親としての責任を感じ続けている。息子は無論自分も加害者なのだから、一人前に暮らす資格はないと思い込んでいる。だから自分の家族を解体して、それぞれ別に暮らすように決意する。また息子がある女性と結婚したいと言ってきたときには、お前には幸せになる資格はないから、結婚などとんでもないと言う。これは責任の取り方にしても過剰な仕方ではないかと思わせるのだが、映画の中では自然な態度として描かれているのである。

時あたかも小学生の殺人事件が起こり、その手口が十七年前に起きた小学生連続殺人と似ているというので、益田が嫌疑をかけられたりする。その嫌疑について、鈴木のかつての同僚記者が調査するのであるが、それに益田は加担する羽目になる。鈴木の近況を写した映像をその記者に見せたりするのだ。しかも雑誌に記事を書かれたりして、鈴木の立場は悪くなる。鈴木はせめて女友だちにわかって欲しいと思うのだが、その女友だちも鈴木から遠ざかるのだ。

結局犯人は別にいたことがわかって、鈴木の嫌疑は晴れるのだが、鈴木が救われることはない。かれは自分には生きる資格がないと思い込み、死のうともするのだが、なかなか死にきれないのだ。また、益田のほうは友だちをまたもや裏切ってしまったことに深い罪悪感を抱くのである。

こんな具合に、この映画には救いというものがない。その救いのなさは、現在の日本社会を鏡のように映し出していることに基づく、というふうに感じさせるよう作られている。その極端な例はタクシー運転手の山内だ。かれは責任の重さを感じるあまりに、自分の家族を解体した上に、息子の結婚にも反対するのだ。そういう態度は、現在の日本では不自然ではない。子どもの犯した罪に父親が責任をとるのは当然だし、その責任には限度というものを認めない、というのが現在の日本人の多くに共通する考えではないか。

この映画はだから、現在の日本のあり方に対する、強烈な異議申し立てとしての面をもっていると言うことが出来る。



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