壺齋散人の 映画探検
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塚本晋也「KOTOKO」:精神病質の女の奇怪な行動



塚本晋也は、スクラップ鉄に変身した男とか、ストーカーにつきまとわれて人前で股間をさらす女とか、奇妙な映画ばかり作っているイメージが強い。2012年に作った「KOTOKO」も、やはりそうした系列上のものだ。この映画は、おそらく統合失調症と思われる精神病質の女の奇怪な行動を描いた作品だ。

その女は映画のタイトルにある「KOTOKO」という名らしいが、映画の中で彼女の名が言及されることはない。彼女は未婚の母親で生まれたばかりの男の子がいるのだが、その子をまともに育てることはできない。精神状態が尋常ではないからだ。彼女の目にはたえず幻覚めいたものが見える。人間が二人に分裂して見えるし、時間が断続して感じられる。そんなわけだから、自分の子どももまともな状態では見えない。そうした母親の精神状態が子供にも伝染して、子どもはいつも不安にかられて泣き続けるといった具合だ。だから、彼女は自分の子どもを取りあげられてしまう。もっとも血を分けた肉親がその子の面倒を見てくれるので、子どもにとってはそう不幸な境遇とはいえないかもしれない。

映画は、そんなKOTOKOという女の行動を追っているわけだ。それに物好きな男がかかわり、KOTOKOと同棲したりする。その男を、監督の塚本自ら演じている。塚本はハンサムではないし、また知性を感じさせるようなこともないので、精神病質の女を相手に、間抜けな男を演じているといった感じである。

その塚本とKOTOKOとの奇妙な同棲生活が、この映画の大部分を占める。精神病質の女の奇怪な行動に、間抜けな男が振り回されるといった具合だ。女はたえず自分を害する行動をするし、また男に暴力を振るって、そのため男は始終生傷が絶えない。そんな二人のやり取りを観客は見せられるわけだが、それを通じて、塚本は精神病質の人間がどのようなものか、観客に知ってほしいと思っているのだろうか。それにしては、この映画の精神病質の描き方は、もしも統合失調症患者を対象にしているつもりなら、かなりな偏見にとらわれているのではないかと思わせられる。

小生は仕事がら、多くの精神病者と関わって来たが、かれらと比べたら、この映画の中の精神病質の女はかなり違った印象を受ける。統合失調症というのは、認知の対象について統合的なイメージが結べず、したがって空間も時間も分裂しているように感じるというのが基本的な特徴だ。それに自傷他害といわれる異常行動が伴うわけだが、なぜかれらがそうした行動に走るのか、詳しいメカニズムはわかっていないようだ。ただ、症状について薬物で制御するという方法が一般的な治療だ。

この映画の中の女は、一応働いていることになっているので、そんなに深刻な症状ではないのかもしれないが、それにしては自傷他害の行動と言い、かなり常軌を逸した行動が目立つ。その女が間抜けな男に加える暴力が、この映画の見せ所となっている。それを見せられると、精神病質に対して観客が感じるだろう不気味さが増幅されると思うのだが、それは精神病をいたずらに差別することにつながる恐れがある。精神病質者の多くには、この映画のなかの女のような凶暴さは指摘できないはずだ。

そんなわけで、この映画は、精神病質というものについて、かなりバイアスのかかった作品といえよう。精神病者をモチーフにした映画といえば、まずヒッチコックの「サイコ」が思い浮かぶ。「サイコ」は精神病者を興味半分に描き、その点精神病者への偏見を助長させるところがあったが、塚本のこの映画にも、そういう傾向が指摘できるようである。



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