壺齋散人の 映画探検
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ラース・フォン・トリアー「ダンサー・イン・ザ・ダーク」:アメリカのチェコ人移民



2000年の映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク(Dancer in the Dark)」は、デンマーク人のラース・フォン・トリアーが作ったデンマーク映画だが、なぜかデンマークではなくアメリカが舞台で、しかもデンマーク人は出てこない。主人公の女性はチェコからアメリカにやってきた移民ということになっている。その移民の彼女が辛酸をなめつつも一人息子とともに生きようとしながら、その思いを絶たれて死ぬというような内容だ。しかも殺人罪に問われて死刑判決を受け、監獄で吊るされるのである。

こんなわけだから、実に陰惨なはずなのに、画面からそうした陰惨さがあまり伝わってこないのは、半分ミュージカル仕立てになっていることと関係があるようだ。主人公の女性セルマ(ビョーク)は舞台俳優を目指しており、いつも舞台で踊ることを夢想しているのだが、映画の節々でその夢想が具体的なイメージを結ぶのだ。彼女は工場で仕事中に突然踊りだすし、友人のジェフへの思いを踊りで示すし、裁判の法廷でも踊りだすばかりか、首吊り台に向かう途中でも踊りだすのだ。その彼女の踊りに、まわりの者も感化されて、一緒に踊りだす始末。検察官や裁判長までも踊りだすのである。

そんなわけで、本来陰惨なはずの場面が、そう陰惨には見えない。歌と踊りが陰惨さを帳消しにし、むしろ陽気な雰囲気を醸し出すのだ。ミュージカルには、無論シリアスな内容のものもあり、たとえば「レ・ミゼラブル」などは、人生の悲惨さを歌と踊りで強調してみせたものだが、この映画の場合には、歌と踊りが人生の悲惨さを帳消しにしてくれるというわけである。

とにかく、主人公のセルマは夢想家なのである。彼女は極端な弱視であり、ついには失明するのだが、そうした境遇が彼女の夢想に拍車をかけるのだろう。しょっちゅう夢想にふけり、そのたびに踊りだすのだ。つまり自分の人生を、歌や踊りのようなものとして受け止め、真剣に考えようとはしないのだ。そうしたウブなところを他人につけこまれ、ひどい目にあわされる。中には親切な人もいて、彼女を助けてくれたりもするが、そうした助力は肝心なときには効果をあげず、彼女は進んで吊るされることを選ぶのである。無論恐怖にかられる。恐怖のあまり体が硬直して動かない。彼女が暴れないようにと、首吊り役人は彼女の体を板に縛り付け、板ごと吊るすのである。吊るし方は、足元の床を開放し、そこから下落させて吊るすというもので、いわゆるアイゼンハワー方式を採用している。これはアメリカ大統領アイゼンハワーが現役の軍人の時に開発した処刑法で、確実にしかも見栄えよく処刑できる方法として知られる。日本の処刑現場でも採用されているはずだ。

彼女はチェコからの移民ということもあって、ひどい差別にさらされる。裁判の際には、検察官が陪審員の差別感情に訴える。彼女はチェコから来たので、共産主義者だとレッテル張りをする。保守的なアメリカ人にとって、共産主義者は人間のくずであり、どんな無法なこともしでかす。だから社会から駆除すべきだと考えている。そういう偏見に訴えることで、裁判を思い通りに運んでいくというのが、アメリカの検察のやり方だというふうに、この映画からは伝わってくる。

それにしても、陰惨さを歌と踊りで帳消しにするについて、夢想が大きな役割を果たしている。この映画にデンマークらしさがあるとしたら、それは夢想を中心に成り立っているということだろう。なににろデンマークは、かのキルケゴールを生んだ国柄だ。夢想好きな人間が多いのであろう。その夢想は、ある意味照れくさいところがあるので、デンマーク人にではなくチェコの移民にさせたというのが、本音ではないか。とにかく不思議な映画である。

なお、セルマを演じたビョークが、どこかしらエクゾチックな雰囲気を持っていて、なかなかいい感じを持たせてくれる。そのセルマが吊るされる現場にカトリーヌ・ドヌーヴ演じる親友の女性を始め知人たちが立ち会う。日本では死刑執行に一般人が立ち会うことはなく、家族にも事前通知がなされないほどだが、アメリカでは家族はもとより希望する友人にも立ち合いが許されているようだ。これは予断だが、この映画に出た時のカトリーヌ・ドヌーヴは50代後半であった。だが、年齢を感じさせない。また彼女にはセクシーなイメージがついてまわったものだが、この映画の中の彼女は、実に常識的な女性を演じている。



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