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リューベン・オストルンド「ザ・スクエア 思いやりの聖域」:
現代スウェーデン社会の矛盾



リューベン・オストルンドによる2017年のスウェーデン映画「ザ・スクエア 思いやりの聖域(The Square)」は、現代スウェーデン社会が抱える矛盾のようなものをテーマにしているように見える。「見える」というのは、画面からあからさまには伝わって来ずに、行間を読むことではじめて頷かれるというような意味だ。そこでその矛盾とは何かということになるが、それは格差の拡大であり、人間の分断ということになるのだろう。この映画には、物乞いたちが数多く出てくるし、虐げられている少年とか、貧困を体現しているかのような類人猿もどきが出てきて、社会を牛耳っている支配層に向って抗議するのだ。その抗議が貧者の声として社会の分断を告発しているように「見える」のである。

スウェーデンといえば、高度な福祉社会を実現し、国民の平等と生活水準の高さが保障されているというイメージがある。ところが最近ではそうではないらしいということが、この映画からは伝わってくる。スウェーデンはEUには加盟しているが、通貨はクローネを採用しており、結構独自な財政運営をしているはずなのだが、やはりヨーロッパ標準化への動きに巻き込まれているのだろう。その動きが格差の拡大や分断を生み出しているのだと思える。

主人公は、美術館のキュレーターをしている中年男。日本では、キュレーターは美術館長というイメージだが、この男は館長ではなく、上級学芸員といったところ。その男が「ザ・スクエア 思いやりの聖域」と銘打った美術展を企画する。また町を歩いていたところ、二人組のスリに財布と携帯電話を盗まれてしまう。この二つの出来事を巡って、映画は展開していく。

男には二人の娘がいる。妻もいるのだが、愛想をつかされて捨てられてしまう。捨てられた男は娘たちと暮らすことになる。その一方で、ほかの女とのセックスを楽しむ。この男はハンサムでもてるので愛人には事欠かないのだ。そのかたわら、盗まれたものを取り返そうとして色々な努力をする。携帯電話に仕組んであるGPSを手がかりにして、犯人の位置情報を割り出したり、最新の技術を駆使することにはぬかりがないのだ。その結果盗まれたものを取り戻すことは出来たが、自分の捜索活動が意外な副作用を生んだりする。その巻き添えを食ったという少年が執拗につきまとってくる。その少年はどうも、スウェーデン社会の貧困問題を象徴しているようなのだ。

貧困ということでは、映画の至る場面で物乞いが出てくる。それを見ると、スウェーデンというのは物乞いで溢れているかのような印象を受ける。実際そのとおりなのかはわからない。物乞いは弱者の代表だが、弱者はほかにも出てくる。ゴリラ人間だ。なぜそんなものを出したのかはわからない。人間と非人間の中間のつもりなのかもしれない。そのゴリラ人間が、優雅なパーティの会場に現われて、人々を切り切り舞いさせるシーンがある。そのパーティが、ノーベル賞の受賞記念パーティを思わせるようになっている。ノーベル賞は世界の文明と豊かさを象徴する行事だ。そこへ野蛮の象徴であるゴリラ人間が現われて、人々を切り切り舞いさせた挙句につまみ出されてしまう。野蛮人の出る幕はないといった具合に。

映画はまた、「ザ・スクエア 思いやりの聖域」と銘打った美術展のPRをめぐる逸話を紹介する。宣伝効果を高めるために、常識的には考えられないようなコンテンツが盛られる。それは小さな少女を画面に登場させて、こなごなに爆破するというものだった。そのシーンの残虐性がネット上で炎上して、企画の責任者である男は吊るし上げの目にあう。社会的な制裁を受けた男は、自分が個人的に迷惑をかけた少年に謝罪しようとするのだが、その少年はいずこかへ姿を消してしまい、会うことが出来ないのだ。

こんな具合に、かなり取り留めのなさを感じさせる映画である。



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