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シテール島への船出:テオ・アンゲロプロス



テオ・アンゲロプロスの1984年の映画「シテール島への船出」は、「旅芸人の記録」以来の、ギリシャ現代史に題材をとった作品の延長にあるものだが、いささか凝った作り方をしている。ギリシャ現代史を正面から描くのではなく、裏面から描いているといったふうなのである。戦後の内戦時にソ連に亡命した男が32年ぶりにギリシャに戻って来るが、自分の故郷の村で隣人たちから非難され、大事にしていた農作業小屋を焼かれた挙句に、ギリシャ当局から国外追放という仕打ちを受けて絶望するというような物語になっている。

これが映画の基本プロットだが、そのプロットを素直に演出しているわけではない。画面構成が例によって無口なので、ただ漠然と見ているだけでは見過ごしそうなのであるが、どうやらこの物語は劇中劇として、本筋である別の物語の合間に差し挟まれているようなのである。ところがその差し挟み方が、これも凝っていて、どこからがサブプロットで、どこまでが本筋なのか、見当がつきにくいのである。それは、メインプロットの主人公たちが、浮桟橋に取り残されたまま、海をさすらい始めるところで終わっていることで余計に増幅されている。この映画は、本筋の冒頭から始まり、劇中劇である「シテール島への船出」で終わっているのである。

シテール島とは、ギリシャのペロポネソス半島の南側に浮かぶ島で、古代ギリシャ語ではキュテーラ島といった。この島はワトーの有名な絵「シテール島への巡礼」を想起させるのだが、この映画もワトーの絵を意識しているらしい。ワトーの絵は、シテール島を、恋人たちが目ざす恋のメッカとして描いているのだが、この映画でも、老人夫婦が目ざすところとして暗示されている。この老人たちは、意識してシテール島をめざすわけではなく、ギリシャを追われて、浮桟橋で海上を放浪するだけなのだが、その放浪にも行き着く先があるに違いない。そうだとしたら、彼らの行先はシテール島以外にはありえないではないか。そんな思いが込められているように伝わってくるのである。

映画は、アンゲロプロスの分身らしき映画監督の仕事ぶりを映し出すことからはじまる。この映画監督は、自分の新しい映画に相応しい老人役の俳優を求めているのだが、ある時撮影所に花を売りに来た老人に大いに関心をそそられ、その老人のあとを追跡する。地下鉄に乗ったりもしてずっと老人を追いかけ続けたあげく、港の一角で、監督はその老人を見失ってしまったようなのだが、そこへ妹が現れて、二人で入港してくる船を待つ。その船からは、戦後ソ連に亡命し、32年ぶりにギリシャに戻って来たと言う父親が現れるのだ。その老人と言うのが、それまで監督が追いかけていた花売りの老人と同一人物なので、観客はいささか騙されたような気持ちになるわけだ。

それ以後、映画はその父親を中心に展開していく。父親を待っていたのは二人の子供のほか、年老いた妻だったのだが、その妻に向って父親はソ連での生活を告白する。ソ連で別の女と家庭を持ち、子供も三人できたというのだ。妻は最初は怒りにとらわれるが、やがて夫を許したようだ。かれらは、一家そろって昔一緒に住んでいた故郷の村へ出かけるのだ。

その村は山の中にあり、ほとんどの村人が転出していた。ところがその村人たちが一人残らず戻って来る。使わなくなった村の土地をリゾート開発会社に売ることとした彼らは、業者と売買契約書を交わすために集まって来たのだ。その契約は、村人の全会一致の賛成がなければ進められないと業者は主張する。ところが父親だけはそれに反対の意思を示す。そのことで父親は村の人びとから憎まれる。役に立たない土地を高値で買って貰えるところを、父親がそれを台無しにしたからだ。

こうして村で孤立した父親は、その後も身勝手な振舞いが収まらず、地元の警察から目の敵にされた上で、滞在証明を取り消されてしまう。父親は32年間行方がわからなかったことで、ギリシャ国籍を剥奪されていたのだ。その挙句にギリシャからの国外退出をせまられる。ところがこれまで住んでいたソ連へは、どういうわけか受け入れてもらえない。といって他に行くところもない。持て余した警察は、老人を浮桟橋に乗せて、国際海域に放り出そうと考える。要する外洋に遺棄しようというのだ。

老人は自分の運命を甘受するつもりになるが、妻もその運命を共にすると決意する。こうして老いた夫婦は、二人の子供たちの目の前で、浮桟橋に乗ったまま、あてもない海上の放浪に旅立つのである。

こういうこともありうるのかと、日本人の小生などには、とにかく不思議に思われるところだが、ギリシャのような複雑な現代史を持つ国には、こういうことも珍しくはないのだろう。人が国籍を失い、どこにも帰属できずにさまようことは、ありうる話のようなのである。ともあれ、アンゲロプロスらしい、鬱屈した情念を感じさせる作品である。




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