壺齋散人の 映画探検
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グルジア映画「懺悔」:ディストピアとしてのグルジア



1988年のグルジア映画「懺悔」は、ある種のディストピアをテーマにした作品である。そのディストピアは、どうやらスターリン時代のグルジアらしい。スターリンは大規模な粛清を行ったわけだが、その実態は、あまり明らかになっていない。この映画は、グルジアでは、地方自治体の幹部がスターリンの意を戴して粛清を行ったというふうに伝わってくるように作られている。

市長が中心になって、市の方針に従わないものを、次々と粛清する過程が描かれる。粛清の合理的な理由はない。ただ市長の方針に反するというだけだ。だから、この市では、市長が独裁者として君臨している。おそらく市長は、スターリンの意向を受けているのだろうが、スターリンは階級の敵を殲滅しろというだけだ、誰がそれに該当するかまでは言わないから、勢い市長が敵を恣意的に判断するということになり、したがって独裁者としての権力を振るうわけである。

このように、スターリンを強く意識しながら作っていると思われるのだが、その独裁者のイメージがなぜかヒトラーを思わせる。市長の髭はスターリン髭ではなく、ヒトラー髭だし、また絵画や音楽など芸術が好きだという点も、スターリンではなく、ヒトラーを想起させる。ヒトラーが芸術のディレッタントを気取っていたことは有名な話だ。

グルジアは、スターリンが生まれた土地であり、また後にはシュワルナーゼのようなユニークな政治家を生んでいる。そういう点で、政治的な民族なのだろう。人種的には、ロシア人のようなインド・アーリア人種ではなく、トルコ人に近いらしい。小生はこの映画を通じて、初めてグルジア語を聞いたが、意味は全くわからなかったにしても、発音には膠着語的なものを感じた。膠着語は、日本語もそうだが、トルコ語の特徴でもある。なお、グルジア語は、キリル文字ではなく、独特のアルファベットを使っている。

映画は、ヴァルラムという名の元市長の葬儀から始まる。大勢の人々に送られて墓に入った市長の遺体が、市長の息子の住む屋敷に送り届けられる。何物かが墓を暴いて遺体を掘り出したのだ。市長の息子は遺体を墓に戻すが、またもや同じことが起こる。それが三度続いたので、息子は人間を動員して犯人を持ち構える。すると一人の女が現われて、スコップで市長の墓を暴こうとする。その場で待ち伏せしていた市長の孫が、その女を銃撃する。

女は裁判にかけられる。裁判所での女の態度は堂々として、人を食ったような所がある。女は墓を暴いたことは認めたが、罪を犯したとは認めない。なぜか、その理由を女は語るのだ。その女の回想という形で過去に起こった出来事が語られていく。それはまさしく地上のディストピアだったというわけである。

詳細は省くが、要するに女の両親をはじめ、大勢の人々が、市長の恣意的な判断で殺されたということだった。女は殺された両親のためにも、市長を許せない。だから何度でも墓を暴いてやると宣言する。そんな女の言葉に、市長の孫が強く反応する。女の言うとおり、祖父の市長は間違っていた。その孫とかれの父親つまり市長の息子とが対立する。そのあげく孫はピストル自殺する。祖父から貰った拳銃でだ。絶望した父親は、自分の父親である市長を呪い、その遺体を墓から暴き出して、絶壁の下に投げ捨ててしまうのだ。

そんなわけで、ディストピア物語にかかわらず、最後には正義が実現されたかのようなエンディングになっている。そこがちょっとゆるいところかもしれない。



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