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キルギス映画「明りを灯す人」:崩壊しつつあるキルギス人社会



2010年のキルギス映画「明りを灯す人」は、キルギス映画として始めてカンヌの映画祭で上映されたという。それまでキルギス映画の存在はほとんど知られていなかったので、ヨーロッパ人にとっては非常に新鮮に映ったようだ。しかもこの映画は、崩壊しつつあるキルギス人社会を描いており、キルギス人が人間として生きていくことの困難さを訴えていた。そんなこともヨーロッパ人には衝撃的に映ったようだ。

キルギスといえば草原の国であり、そこで暮す人々は、自由気ままな遊牧生活を営んでいた。それが定住するようになり、村を作って住むようになった。だが、もともと遊牧に馴れ、集落を作る経験に疎い彼らは、新しい生活様式に適応できない。そんななかで、放棄された牧草地を買い占めて一儲けしようとするような人間が現われる。しかも、そういう連中は外国人の金を当てにしているので、キルギスとしては、国土を外国人に買い占められることにつながる。そんなわけで、キルギス人社会はますます崩壊していく。その流れには誰も逆らえない。政府が無能で、国の方向を示せないことも、そういう流れを加速させている。そんなキルギスの困難な状況を、この映画は伝えようとしているようである。

舞台は伝統的な人間関係に基づく小さな村落。そこで電気工をしている男が主人公だ。この男は、貧しい人に対しては、ただ同然で電気が使えるように計らう一方で、自分自身は風力発電を試みて、自分の家の電力くらいはまかなっている。そんな男を村人は「明り屋さん」と呼んでいる。

そんなのどかな村落に、この村出身の男ベグサットがやってきて、放棄された広大な草原を買収したいという。村長はこの申し出を断るが、明り屋さんは、うまく口車に乗せられてしまう。そうこうしているうちに、村長が死ぬ。するとベグサットは、邪魔者がいなくなったのをいいことに、自分の息のかかった男を新しい村長にすえ、かれを通じて広大な草原を買収しようとする。その草原には巨大な風力発電プラントを整備し、電力で一儲けするつもりである。その計画に明り屋さんも一枚かまされる。

いよいよベグサットは、計画の実現にとりかかる。かれは資金を中国人に出させようとする。そこで中国人たちを村に連れてきて接待する。その接待の席に明り屋さんも同席させられる。接待のハイライトは、中国人たちに地元の女を抱かせることだ。女を全裸にさせて、やはり全裸になった中国人が、女を強姦するという趣向だ。それを目の当たりにした明り屋さんは、キルギス人へのひどい侮辱を感じて抗議する。それに怒ったバグサットが明り屋さんに掣肘を加え、川の中に放り込んで殺してしまう、というような内容の映画である。

この映画から伝わってくるのは、キルギス社会には、我々が想定しているような法治システムはなく、強い者の好き勝手が通用するということだ。かれらは平気で人殺しをするが、それは決して罰を受けないという確信があるからだ。とくに過渡期にあるキルギス人社会では、伝統的な道徳・倫理が通じなくなる一方、それに代る秩序が固まっていない。だから社会はある種の無法地帯に陥らざるをえない、ということが伝わってくるように映画は作られている。

そんなわけでこの映画は、単にキルギス人社会のよさを世界にアピールするのではなく、現代のキルギス人社会が抱える問題を、世界に向けて提示するというような意図を感じさせる。

なお、主演の明り屋さんを、監督のアクタン・アリム・クバトが演じている。かれが演じる明り屋さんには妻と四人の娘がいるのだが、家族との関係は情愛に満ちたものだ。ただ子どもたちがみな娘で、男子がいないことを残念がっている。できたら友人に妻を抱いてもらって、男子の種を植えつけてもらいたいと考えているほどなのだ。

この映画では、中国人が悪役として出てくる。キルギスと中国との間には、何か因縁があるのかと感じさせられる。




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