壺齋散人の 映画探検 |
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エミール・クストリッツァの1985年の映画「パパは、出張中!」は、カンヌのパルムドールを獲得し、エミール・クストリッツァの名とともに、ユーゴ・スラビア映画に国際的な注目を集めた作品だ。この映画が公開された時には、ユーゴ・スラビアはまだ解体前だったが、この映画には国家に対するシニカルな見方が強く感じられ、近未来の解体を暗示するようなところがある。 映画は1950年ごろのユーゴ社会を描く。舞台はサラエヴォだ。当時のユーゴ・スラビアは、多民族国家で、一応チトーの政治的ヘゲモニーは強かったようだが、国が一枚岩という状態ではなかったようで、国民の政治的な不満を、権力が厳しく監視していたようである。この映画は、権力による国民の監視と抑圧とを描いているのである。 主人公は六歳くらいの少年で、彼の眼を通したユーゴ社会が描かれる。少年が政治的な社会を少年らしい無垢な視点から見るというところは、「ブリキの太鼓」に影響されているのだろう。少年の一家は、父親が政治的な罠にはめられたことで辛酸をなめる。その辛酸を少年らしい目を通じて描くというのが、この映画の見どころだ。 少年が割礼を施される場面が出て来るから、この少年の一家はボスニアのムスリムだと思われる。クストリッツァ自身が育った家庭もムスリムだったから、この少年にはクストリッツァ自身の面影も投影されているのだろう。割礼をすることの利点も強調している。それは女性を喜ばせる効果があるというものだ。 その少年の父親が、国家警察によって連行されてしまう。理由は、国家への批判的な発言をしたというもの。たいしたことを言ったわけではなく、軽い気持ちで体制への不満を口にしただけなのだが、父親の不倫相手の女がそれを、父親の義兄と国家機関の人間の前でもらしてしまったところ、大事になったのだ。その不倫相手の女は体操教師をしていて、父親が離婚して自分と結婚してくれることを望んでいるのだが、なかなか望みがかなわないので、半ばは腹いせから告げ口をしたというふうに伝わって来るようになっている。 義兄が一枚からんでいることで、逮捕の時間的余裕をもらった父親は、親族を集めて息子の割礼を祝うパーティを催し、その席で連行されることを皆に打ち明ける。しかし息子に向っては、ちょっと長めの出張をするといってごまかすのだ。この父親は、これまでにもたびたび出張を繰り返して来たので、そのこと自体には不自然さはなかったのだ。 だが、父親がいなくなると母親は泣いてばかりだし、その父親もなかなか帰ってこないので、息子は段々と不審を感じるようになる。やがて父親から手紙が来て、元気に生きていると告げて来る。また面会もできるというので、母親は息子をつれて、リプニッツァという町まで逢いに行く。父親は駅まで迎えに現われ、その夜は駅の近くのホテルで三人水入らずで過ごす。両親は久しぶりにセックスをする気なのだが、息子がそれを邪魔してさせてやらない。なにしろベッドの両親の間に割って入って一緒に寝てしまう始末なのだ。 しばらくすると、父親はズヴォルニクというところへ移動させられる。どういうわけか、その街で家族そろって暮らせる見込みがつき、少年は母親及び兄とともにトラックに乗って、ズヴォルニクへと引っ越していく。そこで一家は、あるロシア人の父子が住んでいる家に同居することとなり、そこから少年は学校に通うようになる。この家には少年と同じ年の少女がいて、少年は彼女に恋をするのだ。しかしこの少女は重い結核を病んでいるらしく、ある夜救急車で運ばれていったあげく、再び戻ってはこなかった。 父親は根からの女たらしらしく、ズヴォルニクの街では同僚たちとつれだって売春婦を買いに行く始末だ。そんな売春宿に少年も連れていかれるのだが、それは母親が父親を一人では行かせないからなのだった。こんな具合にこの映画は、市民に対する権力の監視とか抑圧とかを描いているにかかわらず、当の市民たちは不自由ながらもしたたかに快楽を追求しているところが強調されて描かれている。こういうタイプの国がかつて存在したのかと、不思議に思わされるところである。 映画は、チトーによる権力の完全掌握を市民たちが祝う場面で終わる。その場面で少年は、チトーを賛美する言葉を読まされるのだが、自分がどんな言葉を読んでいるのか、あまり理解できていないようなのである。一方市民たちのほうは、チトーの権力掌握よりはサッカーの試合の方が気になるらしく、みなラヂオの前に釘付けなのだ。ちょうどヘルシンキ・オリンピックが行われている最中で、ユーゴ・スラビアはソ連に対して歴史的な勝利を収めたのだ。 |
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