壺齋散人の 映画探検 |
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1994年公開のロシア映画「太陽に灼かれて」は、1930年代半ばのいわゆるスターリン粛清の一端を描いたものだ。この粛清では100万人以上が犠牲になった。その多くは、スターリン派による反スターリン派の粛清であるが、中にはこれに乗じて私的な怨みを晴らしたようなものもあったらしい。この映画はそうした私的な怨みをテーマにしている。 映画を見ている限り、これが私的な怨みを粛清の名を借りて果たしているのだとは、なかなか伝わってこない。映画の最後のシーンで、そうした趣旨のメッセージが流れ、観客はそこで初めて、それまでのわだかまりが解消されるのを感じるのだ。そのわだかまりとは、登場人物のミーチャがなぜ、昔の恋人の前に現われ、不可解な行動を取り続けるのかということだった。その不可解な行動は、宿敵に対する彼の個人的な怨みに動機づけられていたというわけである。 休暇を楽しんでいる現役高級将校の家に、昔の友人が訪ねて来る。その友人はミーチャといって、この将校の妻マルーシャの昔の恋人である。マルーシャはミーチャと別れた後、軍人コトフの妻となり、今では六歳になる娘ナージャがいる。しかし、眼の前に現われた昔の恋人に心を動かされる。そんな妻とミーチャの行動をコトフは、嫉妬を感じながらも鷹揚に見ている。 しかし、事態は意外な展開を見せる。ミーチャは今では秘密機関の一員ということになっており、その肩書を利用してコトフ大佐の罪なるものをでっち上げ、彼を陥れようと企んでいたのだ。実際コトフ大佐は、突然訪ねてきた特務機関の連中によって連行される。そしてその直後に、彼が銃殺刑に処せられたとのアナウンスが流れる。彼には銃殺刑に値するような事跡はないから、それがミーチャの仕組んだ罠だということを、観客は間違いなく察するのである。 ミーチャがコトフ大佐をかくも恨んだわけは、若い頃に特務を命じられてマルーシャから切り離され、青春をあたら棒に振ったばかりか、愛するマルーシャをコトフに横取りされたからだ。その怨みをなんとか晴らしたい。ところがいまや、国内では醜悪な権力闘争が巻き起こっており、いわゆる反動裏切り分子の粛清が始まろうとしていた。ミーチャはそうした動向に乗じて、コトフを粛清の血祭りにあげようと企んだのだ。その企みは成功し、宿敵コトフを消すことができた。その巻き添えで、コトフの娘ナージャまでが追放刑に処せられたというアナウンスが流れる。それまでミーチャとナージャは親しいお友達としてむつみあっていただけに、これはあまりにもひどい仕打ちだとの感を観客にもたらすのである。 こういうわけでこの映画は、ある意味凄惨な内容のものである。にもかかわらず凄惨に見えないのは、映画の大部分が失われた青春へのノスタルジーのようなものからなっており、そこに観客が甘美な共感を受けるからだろう。その意味ではトリッキーな作り方になっており、観客は映画を見終わったあとで、一杯食わされた感じになるのである。 なお、主演のコトフ大佐を監督のニキータ・ミハルコフ自身が、その娘のナージャ役をミハルコフの娘ナージャ・ミハルコヴァが演じている。 戦火のナージャ:ニキータ・ミハルコフ 遥かなる勝利へ:ニキータ・ミハルコフ 12人の怒れる男:ニキータ・ミハルコフ |
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