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12人の怒れる男:ニキータ・ミハルコフ



ニキータ・ミハルコフの2007年の映画「12人の怒れる男」は、アメリカで何度も舞台・映画化された作品のロシア流リメイクである。この作品は裁判制度の問題点をテーマにしたもので、人が人を裁くことに正義があるのかということをとりあげたものであるが、ミハルコフのこのリメイクでは、それにロシア流の味付けが施されている。つまり、ロシアという国には、そもそも正義を体現した法がないのではないのか、そんな国で裁判をすることにどんな意味があるのか、ということについてロシア流のブラック・ユーモアを交えながら描いているわけだ。

映画は、ある殺人事件についての陪審員たちの評議を描いている。陪審員制度は英米法の特徴とされるが、ロシアでも同じような制度を取り入れているらしい。殺人事件の場合には、陪審員たちは別室に缶詰めにされて、自分たちだけで有罪・無罪の決定をしなければならない。その場合決定は全員一致を原則とする。一人でも反対意見があれば評決は成り立たない。それは、すこしでも疑念のあるものは無罪の可能性があるという理由からだとされる。

こういう制度を前提として陪審たちの評議が始まる。事件は殺人事件で、ある少年が自分を育ててくれた義父を殺したというものだ。これについての評議を12人の陪審員たちが担う。全員男たちなのは、ロシアの陪審員制度の現実を反映しているというよりは、原作がそうなっているからだ。その男たちが、裁判所の密室に閉じ込められて、時間無制約という条件で評議を求められる。ところがその裁判所は、ロシアの現実を反映しているのか、予算不足のために建物が老朽化しており、隣接する小学校の建物を間借りしている状態。陪審員たちが閉じ込められたのは体育館の中だ。そこで外界から遮断された12人の陪審たちが、有罪か無罪かの一義的な決定を求められるのだ。

陪審員たちのほとんどは、裁判の進行に納得しており、検察側の証拠はなんら問題がなく、従って被告の有罪は間違いないと思っている。そこで早速評決が行われるが、意外なことに無罪とするものが一人だけいた。有罪に投じた男たちはそれを意外に感じる。何故なら裁判は申し分なく行われたわけだし、自分らとしてはやっかいな評議は早く終わらせて家に帰りたいところに、無罪を主張するものが一人でもいれば、評議は終らないからだ。陪審員の一人は、これからカフェ・プーシキンにランチを食いにいくつもりだったのに、これでは行けないではないかと怒り出す。カフェ・プーシキンは小生もモスクワに旅した折に立ち寄ったことがあるが、なかなかいいカフェである。そこへ行きはぐったことを大いに残念に思う気持ちはよくわかる。

無罪を主張した陪審員は、裁判手続きもさることながら、それ以上にロシアのかかえる現実を問題としてとりあげる。ロシアの現実からすれば、人が罪を犯すことにはそれなりの理由がある。その理由を脇へ置いて犯人だけ処罰されるのはフェアではない。実際自分も又犯罪的な行為をしたことがあるが、罰せられるかわりに手を差し伸べられ、かろうじて立ち直ることができた。この少年にも立ち直る機会を与えるべきだというのが、彼の理屈だった。

その理屈に対して大部分の同僚は拒絶反応を示すが、もうひとり、真正のユダヤ人を自認する男が無罪の側に鞍替えする。彼の言い分は、自分はいい加減な気持ちで有罪に投じたが、よく考えると、裁判のやり方には問題があった。被告の弁護士はまったくやる気がなかったし、証人たちの証言にも疑わしいところがあった、というものだ。

そんなわけで、陪審たちで独自のシミュレーションが行われ、彼らなりに裁判の再現が行われたりする中で、次第に無罪に鞍替えするものが増えてゆく。無罪に鞍替えする者たちの理由は、ほとんどが自分の境遇にたとえながら少年の悲惨な境遇に同情するというもので、ロシアのような野蛮で法が骨抜きになっている社会では、法律を振りかざして被告を断罪するのはフェアではないというものだ。

その辺は原作にもあったと思われるが、それがロシアということになると、法が骨抜きになっているという点が強い現実性を以て迫って来る。たしかに、いい加減な法が支配しているところで、その法を振りかざして人を断罪するのは、ソクラテスでも憚られるだろう。

延々とした議論の末、大部分のものが無罪に傾いたところで改めて評決がなされる。ところがまだ有罪を主張する者がいる。議長役を買って出ていた男だ。他の男たちは、これで全員一致で無罪の評決が行われ、やっと家に帰れると思っていたところ、意外な結果が出たので驚く。しかもその男の有罪の理由が振るっているのだ。

男が言うには、自分もこの少年は無罪だと思うのだが、少年を無罪にして世間の荒波に放り出すのが忍びない、というのだ。この身寄りのない少年は、世間の荒波にもまれながら生きてはいけないだろう。それよりむしろ有罪として、刑務所のなかで生き永らえさせてやったほうが彼のためになる。そこで自分は彼を有罪としたいのだと言い出す。

しかし、これは屁理屈というべきなので、最後には彼も又無罪に回り、ここに初めて全員一致の無罪評決がなされる。議長役の男はそれでもこの少年への同情を禁じ得ず、彼が無罪放免となったあかつきには、自分が保護者を買って出るつもりなのである。

こんなわけでこの映画は、ロシアの肌寒い法的現実と、ロシア人の個人としてのお人好しな面とを併せて描いたもので、ロシア人気質を見るには格好の教材となりえているのではないか。




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