壺齋散人の 映画探検
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ファウスト:アレクサンドル・ソクーロフ



アレクサンドル・ソクーロフの2011年の映画「ファウスト」は、ロシア人であるソクーロフがロシアで作ったロシア映画である。ところが、映画の中ではドイツ語が使われている。これを見た筆者は、最初はドイツ語吹き替え版かと思ったが、そうではないらしい。わざとドイツ語を使っているようなのだ。タイトルもドイツ語で書かれている。ヨーロッパ映画には、国際協力映画というものがあって、たとえばイタリア中心の映画でフランス語が用いられたりはするが、ロシアで作られた映画でドイツ語をもちいるというのはどういうわけか。これでは、日本映画でありながら、もっぱら中国語を聞かされるようなものだ。

タイトルには「ファウスト」とあるが、ゲーテやマーローの「ファウスト」とはあまり関連がない。多少似ているのは、メフィストフェレスを思わせる魔物マウリツィウスが出て来ることと、ファウストが小娘のマルガレーテに恋をして、自分の魂と引き換えに彼女の愛を得られるようにマウリツィウスと契約するところぐらいだ。

本物の「ファウスト」説話の眼目は、悪魔と人間とのかかわりだが、この映画のなかでも一応マウリツィウスが悪魔役で出て来る。しかしマウリツィウスにはメフィストフェレスのような迫力はない。かれは、尻尾が生えていたり巨大な太鼓腹をしていたりと、やや極端な風貌をしているが、いかにも人間的な感じがするし、終始人間とともに暮らしていて、ファウストにいつも付きまとっている。かれがファウストに付きまとう理由は、ファウストの魂が欲しいからということらしいが、それで以て何かいいことがあるのかといえば、かならずしもそうは言えない。実際、マウリツィウスはファウストの魂を獲得して、それをあの世に案内してやるのだが、そこでファウストの為にさんざんな目にあって、ファウストの魂を活用するどころではないのである。

そんなわけでこの映画の中のファウストは、魂となってあの世に旅立ったはいいが、案内人たるマウリツィウスを失って、この世に戻る手がかりを失ってしまうのだ。

筋書きとしてはこれだけのことで、きわめて単純なのだが、映画を見た印象はなんとも言えず複雑だ。というのもこの映画は、ファウストやマウリツィウスをはじめ、登場人物たちが形而上学的な空疎な議論にうつつを抜かしているからだ。その議論とはどうやら、存在とは何か、ということらしい。存在には生きるということが含まれ、生きることの対局である死は、不在としての無であると言った具合で、その一方、無から有が生まれることも原理的にはありうる。ホムンクルスはその証であり、そのホムンクルスを生むのは錬金術である。この映画の中のファウスト博士は様々な肩書を持っているが、そのなかでも錬金術師の肩書が彼のもっとも誇りとするところなのだ。

伝説のファウストが小娘のグレートヒェンに一目惚れしたように、この映画のなかのファウストもやはり村の小娘であるマルガレーテに一目惚れする。かれがマルガレーテに遭ったのは公衆浴場の湯の中であったが、かれはさっそくマルガレーテの衣装をめくって、彼女の尻を見ようとする有様なのだ。そんなファウストにマルガレーテのほうでも応えるが、しかしファウストが自分の兄を殺したことを知って苦しむ。それでも彼女は自分の裸体をファウストの前にさらすのであったが、ファウストは良心の呵責に耐えられず、彼女を凌辱することができない。ファウストは彼女相手でも、思弁的な言葉を弄するばかりなのだ。

映画のクライマックスは、マウリツィウスに伴われておとずれたあの世の光景である。そこは地獄とは違って業火は見られず、そのかわり荒涼たる氷の世界だった。その世界でファウストはマルガレーテの兄に抱き着かれる。あまりにも寒いから、ファウストの体温で温めてほしいと言われるのだ。このあたりは、異世界についてのロシア人のビジョンが反映されたものと感じることもできよう。

この映画はやけに思弁的な所が特徴だが、そうした思弁性はタルコフスキーの映画にも見られるところで、もしかしてロシア人共通の性癖の現れなのかもしれない。




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