壺齋散人の 映画探検
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アレクサンドル・ソクーロフ「太陽」:昭和天皇を描く



アレクサンドル・ソクーロフの2005年の映画「太陽」は、昭和天皇の敗戦前後の言動をテーマにしたものである。ロシア人の監督によるロシア映画であるが、昭和天皇を始め出て来る人間はほとんどが日本人であり、その日本人を日本人の役者が演じ、かれらのしゃべっている言葉も日本語である。だから、これがロシア映画とわかったうえで見ていないと、まるで日本映画を見ているような錯覚に陥る。もっともこの映画は、昭和天皇を始めとした日本人を、戯画化したところがあるので、こんな映画を日本人が作ったら、観客たる日本人から袋叩きにされたであろう。

映画は全編にわたって昭和天皇の表情と、その言動をことこまかに映し出す。前半では、皇居の地下に設けられた執務室において、内閣のメンバーたちを前にした昭和天皇の発言が主な見どころであり、後半では、敗戦に直面した昭和天皇が、マッカーサーと必死の交渉をする場面が見どころになる。どちらも、昭和天皇は自分自身のことにしか関心がなく、国民の蒙っている苦悩には無関心だというような雰囲気が伝わって来る。とくに、マッカーサーとの交渉の場面では、表向きには戦争責任を自分一身で負うといいながら、本音では、自分の命と家族の安全ばかりが昭和天皇の関心事だというふうに伝わるように作られている。

そうした昭和天皇の自己中心ぶりは、敗戦直前の困難な局面にあっても、趣味の生物学研究に夢中になる場面によく現われている。その趣味は、マッカーサーとの会談の場でも披露され、昭和天皇はナマズを話題にして、そんなことには無頓着のマッカーサーをイライラさせるのである。そのへんは、愛嬌といってよい。

昭和天皇を演じたイッセー・緒方は、一人芝居の名人として一世を風靡した男だが、その表情が昭和天皇に似ているばかりか、仕草までそっくりである。とくに、口をとんがらせてドモリがちにしゃべるところなどは、生前の昭和天皇の面影を彷彿させるものがある。そこに観客は、昭和天皇を戯画化する意図を感じるに違いないのだが、その意図は、一ロシア人として、日本を覚めた目で見るところから発しているのだろう。そうしたロシア人らしさがもっとも強く現われているのは、昭和天皇をしてマッカーサーに向って、米軍が日本国民に加えた残虐行為を非難せしめているところだ。その非難を通じて、日本もアメリカも、同じような戦争犯罪を行ったのだと、ロシア人のソクーロフは主張しているかのようである。

昭和天皇を戯画化する一方、御前会議に出席した閣僚たちの無責任ぶりも強調している。とくに陸軍大臣などは、日本全体のことを考えるよりも、陸軍というセクト的な利害ばかりにこだわり、そのことで海軍大臣と言い争いをする始末。そういうバカげた言い争いを通じて、ソクーロフは日本の指導者たちの無能ぶりをあざ笑っているわけである。相手の国の指導者がこんなにも無能だったおかげで、ロシアは漁夫の利を得られた、とほくそ笑んでいるようである。

題名の太陽は、太陽神の子孫である昭和天皇が、太陽のように輝きながら国民に君臨しているさまを表わしている。実際この映画のなかの昭和天皇は、臣下たちから神のようにあがめられているのである。そうした現人神としての威光は、米兵の前では働かず、かれらからチャップリンのようだと言われて、その姿かたちを嘲笑されるのである。だが、昭和天皇はそうした嘲笑をものともしない。何故なら現人神たる身分において、下界の下種どものなすところは、意に介するところではないのだ。かれが唯一意に介しているのは、勝者の親分たるマッカーサーだけで、そのマッカーサーを恐れるのは、自分自身とその家族の生殺与奪の権を握っていると思うからだ。

こんな具合でこの映画は、日本人としては面白くないところがある。第一、この映画の中での昭和天皇の言動が、事実を踏まえたことなのかどうかもあやしい。おそらくは、大部分が臆見の産物なのだろうと思う。その臆見は、ロシア人の日本への敵愾心から生まれたものであろうと、強く感じさせられるところである。イッセー・緒方始め、この映画に出演した日本人俳優たちは、どんな気持ちで演技に臨んだのか。



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