壺齋散人の 映画探検
HOMEブログ本館美術批評東京を描く水彩画動物写真西洋哲学 プロフィール掲示板

アンドレイ・ズビャギンツェフ「裁かれるは善人のみ」:ロシアのディストピア



アンドレイ・ズビャギンツェフの2014年の映画「裁かれるは善人のみ(Левиафан)」は、カフカの不条理小説を思わせるような作品だ。悪徳市長から家財産を略奪されそうになった男が、モスクワから古い友人の弁護士を呼び寄せて戦おうとする。弁護士はいろいろな手を使って市長を倒そうとするが、返り討ちになって尻尾を巻いて逃げ去り、男も妻を殺害した容疑で裁かれる。妻は海で死んだのだが、どのようにして死んだのかわからない。だから男は冤罪を着せられたともいえる。その男はまた、信頼していた弁護士に妻を寝取られた。そんなわけで、男にとっては往復びんたをくらったようなものだ。男は善人なのだが、その善は市長が体現する悪の前では何ものでもない。正義は権力にあり、裁かれるのはいつも善人なのだ。

この映画が物語るある種のディストピアは、現在のロシア社会の暗喩なのか。この映画の中のロシア社会は、権力を持った連中が互いに結託して私利を追求してやまない。それに抵抗するものがあれば、悪人どもが全員スクラムを組んでつぶしにかかる。この映画の中でも、市長を追求しようとする弁護士を、あらゆる権力機関が結託して邪魔するのだ。その弁護士にしても、本来の目的は友人を守ることではなく、その妻を寝取ることだったということがわかる。実に救いのない筋書きなのだ。

こんな映画を見せられると、ロシア社会というのは、法的な正義とは無縁な暗黒社会だという印象をうける。その印象は、プーチンのような男が絶対的権力を振るっている現実によって強化される。プーチンが絶対権力を維持できているのは、この映画の中の市長が絶対権力をもっていることと、根を同じくした現象なのだ。ロシアでは、私益が公益に優先し、強いものが弱いものを搾取するのは自然的摂理のようにみなされている。じっさい、ロシアの治安の悪さは、短期の旅行者でも感じることで、それはロシア社会が荒れていることの現れということもできる。この映画は、そんなロシア社会をカフカ的なディストピアとして描いているわけである。

原題は「リバイアサン」。リバイアサンとは、巨大な海龍のことで、トーマス・ホッブズの古典的な著作の題名にもなっている。ロシア語では「リェヴィアファン」と発音される。映画では、そのリバイアサンらしきものとみられる巨大な骨が映し出される。




HOMEロシアの映画









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2013-2021
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである