壺齋散人の 映画探検
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惑星ソラリス:タルコフスキーのSF映画



アンドレイ・タルコフスキーが1972年に作った映画「惑星ソラリス」は、ソ連製のSF映画として歴史上に名を留める。宇宙を舞台としたSF映画としては、1968年のハリウッド映画「2001年宇宙の旅」があり、また不気味な地球外生物が出て来るものとしては1979年の「エイリアン」があるが、それらに比べるとこの映画は、かなりテンポが緩やかで、のんびりした雰囲気を感じさせる。ソ連といえば、当時はアメリカと並ぶ宇宙大国だったわけだから、宇宙を舞台にしたSF映画も、もっと緊張感に満ちたものになってよかったとも思われるが、そこはタルコフスキーの趣味も働いて、このようなのんびりとした映画になったのだろう。

さる惑星を観察するために打ち上げられた宇宙船に謎めいたことが多発したので、それを確認したうえで、この宇宙船のミッションを存続させるかどうか判断する材料を集めるため、ある学者(ケルヴィン)が派遣される。すると宇宙ステーションには、三人いるはずのクルーのうち二人しか存在せず、しかも彼らの挙動が非常に不可解なのだ。その理由はやがて薄々とわかる。彼らはこの宇宙ステーションで不可解な経験を重ねているうちに、すっかり疑心暗鬼になってしまって、それが人間同士でも打ち解けることのできない行動様式を身につけさせてしまったようなのだ。

ケルヴィンが驚いたのは、いないはずの生き物(人間の姿をしている)を宇宙船の中で見かけたことだ。なぜそんなものがいるのか。どうやら、宇宙飛行士の観念がそのまま実体化して現われるということなのだ。その生き物はどうやら、二人の飛行士のうちの一人の心のなかのイメージが実像化したものらしいのだ。

そのうち、ケルヴィン自身の前にも、一人の女が現われる。それは十年前に死んだ彼の妻だった。彼はその妻がいまだに忘れられないで、つねに心にイメージを思い描いているため、そのイメージが実像化して彼の前に現われたのだ。

この不思議な現象は、惑星を包んでいる海に原因があるらしいとクルーは言う。その海は思考していて、その思考が様々な不思議な現象を引き起こすらしい。人間の心のなかのイメージを実像化させるのも、そうした海の思考作用がもたらしたものらしい。

クルーのうちの最年長者であるスナウトは、ケルヴィンの呼び出した女に懐疑的で、彼女をなんとか始末したいと考えるが、ケルヴィンのほうでは、愛する妻とたとえ幻想の形でも出会えたことで、彼女に強い愛着を感じる。そんな彼の愛着を踏みにじるように、スナウトは彼女を破壊してしまう。失意のケルヴィンは、一度は彼女とともに永遠に宇宙船にとどまる決意をしたのだが、彼女が消え去ったことで、失意を抱えながら地球に戻って来る。

こんな調子で、SF宇宙映画と言いながら、その実はある種の恋愛映画になっている。そこがSF宇宙映画らしくないと批評家からは散々言われたのであるが、タルコフスキーはよく引き合いに出される「2001年宇宙の旅」に触れながら、自分は荒唐無稽な娯楽映画を作ったつもりはなく、道徳性あふれる人間的な映画を作ったのだと胸を張って見せた。

それにしては、この映画はややセンチメンタルに過ぎて、SF映画としてはあまりにもウェットな印象を与える。ウェットであるばかりか、これはタルコフスキーの特徴なのだが、映像の進み具合がスローテンポで、見ている方としては、やや屈託を感じさせられる。なにしろ145分という大作なのだが、なぜそんなんに長くしなければならなかったか、納得できる理由が見当たらない。特に、最初の場面で出て来た元宇宙飛行士の逸話などは、物語の進行上かならずしも必要ではないし、それに彼は途中で消えて二度と出てこないのであるから、余計に彼が出て来た意味は希薄である。そういうところがこの映画に、冗漫との印象を植え付けるのであろう。

この映画のもっとも奇抜な所は、海という、我々の常識にとっては無機的なものが、思考をするという設定だ。海が思考すると言うのは、なかなか思いつくアイデアではない。世界中の神話においても、岩や水が思考するというような話はないのではないか。そういう意味では、荒唐無稽を嫌うと言いながら、タルコフスキーはかなり荒唐無稽なことを主張しているわけだ。




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