壺齋散人の 映画探検
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鏡:アンドレイ・タルコフスキー



1975年のソ連映画「鏡」は、アンドレイ・タルコフスキーの自伝的な作品だと言われている。そのことを知らずにこの映画をいきなり見ると、人物の相関とか物語の展開が非常にあいまいかつ輻輳して見えるので、どう解釈してよいかとまどうところがある。ひとつだけはっきりと迫ってくるのは、この映画が現代のソ連社会で生きることの意味について訴えているらしいということである。

この映画は、作者であるタルコフスキー自身は表だっては活躍せず、彼の母親とか、彼の妻(この二人は一人の女優が演じている)、そして少年時代の彼自身とか、同じく少年である彼の息子とかが出てきて(この二人も同じ少年が演じている)、生きることの意味をそれぞれ考えさせる。その合間に、近い過去から現在にかけてのソ連の歴史的出来事が、モンタージュ風に差し込まれる。それは、レニングラードの攻防戦であったり、ナチスへの勝利であったり、スターリン時代の検閲の恐怖であったりするのだが、その合間に、スペイン内戦とか、広島への原爆投下とか、ダマンスキー島における中ソの軍事対立とかのシーンが挟まれる。それらのシーンはドキュメンタリーフィルムの一こまをそれぞれ挿入したものだ。

こういう手法を通じて、ソ連に生きる人々の人間的なプロフィールが順次展開されていくわけだが、我々観客はそれを通じて、同時代のソ連の人々の生活の一端を垣間見せられているように感じ取るわけである。そして当のソ連に生きている人々のうち、この映画に出て来る人々はほぼ平均的なレベルの生活をしているのだと思うのだが、それらの人々を代表して、タルコフスキー自身を演じる人物は、我々は私有財産を持たないブルジョワのようなものだというところが印象深い。ソ連の平均的な人々は、社会主義を標榜する社会にあって、私的な財産こそ持たないが、暮らしぶりや考え方は、欧米のブルジョワと異ならないといっているわけであろう。

その欧米とロシアとを対比して、ロシアへのこだわりを強調する場面が出て来る。それはタルコフスキーの息子が一老婦人の求めに応じてプーシキンの詩の一節を朗読する場面で、その詩はロシアが他のキリスト教国とは切り離されてしまったけれども、そのことでロシアは悲しんでばかりいる必要はない、なぜならロシアにはロシアのよいところがあるのだから、というような内容のものだった。このようにロシアのロシアらしいよさにこだわる姿勢は、「アンドレイ・ルブリョフ」にも見られたものだ。

映画の冒頭で、どもりの少年が一女性医師によって催眠療法を受ける場面がでてくるが、これは映画の本筋とは全くかかわりがない。おそらくはタルコフスキー自身の体験を回想録風にさしはさんだのだろう。それにしては、映画の冒頭に位置し、それが後の展開とはほとんどかかわりを持たないので、見ているものとしては面食らうところがある。

冒頭のシーンに続いて、タルコフスキーの母親が医者を名乗る見知らぬ男に性的な挑発を仕掛けると思わせるような場面が続くが、これもそれ以降の展開とはほとんどかかわりあうところがない。ただ、この場面を通じて、タルコフスキーの母親には好色なところがあったと暗示する効果があるかもしれない。彼女が夫に逃げられたのは、その好色の為だったのではないか。そう思わせるところは、彼女がその女友達から夫に逃げられたことを揶揄される場面からもうかがえる。

こんな具合でこの映画には、わかりやすい筋書きがなく、前後につながりのない場面が次々と重なっていくといった感じなのだが、そのとりとめのないつながりの中から、同時代のソ連に生きる人々の感性のようなものが伝わって来るというふうに作られている。そういった意味では、かなり気難しい映画である。




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