壺齋散人の 映画探検
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アンドレイ・タルコフスキー「ストーカー」:核爆発の隠喩



アンドレイ・タルコフスキーの1979年の映画「ストーカー」の題名は、異性にしつこくつきまとう人間のことではなく、ロシア語の「スタルキェル」という言葉を英語流に言ったものだ。で、そのスタルキェルが何を意味するのか、筆者の持っているロシア語辞典には載っていなかった。映画の解説サイトの中には、密猟者などと訳しているものもあるが、それが正しい訳なのかどうか、筆者には確認できない。

ともあれこの映画は、ある種のSF映画である。地球上のあるところに、隕石が落ちたかなにかして、荒涼たる土地がある。その土地はゾーンと呼ばれ、軍隊はじめあらゆる人間の接近を拒むところがあったが、なかには迎えられる人間もいて、そういう人間には何でも望みがかなうと言う噂が流れていた。その噂に引きつけられて、ゾーンの内部に入り込もうという者もいた。この映画に出てくるスタルキェルと呼ばれる男は、そうした人間たちをゾーンに案内することを仕事にしているのだ。

かくして、二人の依頼人を案内して、スタルキェルがゾーンの内部深く入り込んでいくところを、映画は描く。ゾーンは、日常世界とは鉄道線路によって結ばれているほど身近なところにあるが、その内部は、日常世界とは全く異なった空間と時間とからなっている。人間がそこを通るには、ゾーン特有の自然法則に従わねばならない。でなければ彼は生きて日常世界に戻ることは出来ないのだ。

散々冒険的なことを積み重ねながら、三人はやっとゾーンの内部の、もっとも核心的な部分に近づく。そこでゾーンに向かって願い事を言えば、何でもかなえられるという部屋だ。しかしその願い事は、その者の無意識を反映したものでなければならない。心の表面では慈善的なことをしたいと願い、それをゾーンに向かって表明しても、無意識のうちで金儲けを望んでいたら、ゾーンは彼に金をもうけさせてやる、というわけなのである。

そこで、二人の依頼人のうち、作家と呼ばれる男は、そんなことはまやかしだといって怒りだし、教授と呼ばれる男は、用意していた爆弾装置で、ゾーンのその部屋を爆破しようとする。ゾーンが人心を惑わし、人々を堕落させているという理由からである。

結局教授はゾーンを爆破することはしなかったが、三人ともゾーンに願い事を言わないまま、現実世界に戻って来る。そんなスタルキェルを妻が迎えに来る。そして疲れた夫を癒そうとして彼をベッドに寝かせ、観客に向かって次のように言いながら幕が閉じる。「わたしの母は、私たちの結婚に反対でした。彼が呪われた永遠の囚人だと言うのです。でも私は後悔していません、彼を愛しているからです。彼との結婚生活は苦しみの連続でしたが、苦しみのなかの幸せこそ、退屈な生活よりはるかに意味があります」

こんな具合でこの映画は、いったい何が言いたいのか、よくわからないところがある。人間の欲望のあさましさを指摘したかったのか、それとも人類の無節操が地球に災厄をもたらすのだと言いたいのか。実際この映画のなかのゾーンは廃墟として描かれているが、それは人間の無節操さが招き寄せたものだというようなメッセージが伝わって来る。

この映画がつくられた1979年には、まだチェルノブイリ事故は起きてはいないが、この映画にはどうもチェルノブイリを予見しているようなところがある。原発が爆発して周辺一帯が廃墟となり、人々はそこに近づくことができない。近づいた人々は尽く死に絶えるが、それは放射能のせいだ。そんな予見がこの映画の中には反映されているように見える。その点ではこの映画は、人類に対する黙示録的な意味を持っているのかもしれない。実際、映画に出て来る工場群は、原子力発電所を彷彿させるものなのである。

なお、この映画にはタルコフスキーの映像処理の特徴がよく現われている。ロングショットのカメラを長まわしして、対象をのんびりと映し出すところや、登場人物たちに空疎な哲学的議論を交わしあわせるところなのだ。そのためもあってこの映画は、タルコフスキー特有のゆったりとした時間を感じさせる。そのゆったりとした時間感覚でSFめいた世界を描き出すわけだから、独特のミスマッチを感じさせもする。



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