壺齋散人の 映画探検
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マクベス:オーソン・ウェルズのシェイクスピア映画



オーソン・ウェルズはシェイクスピアが好きだったようで、三つの作品を映画化している。最初は「マクベス( Macbeth )」。シェイクスピア劇の中でも、もっとも多く映画化されたもので、ウェルズの1948年のこの作品は六度目の映画化だという。彼はこれを独自の視点から映画化した。

それは、マクベスの心理の動きに焦点をあてるというやり方だ。この劇には魔女が出てきたり、暗殺の場面があったり、最後には壮大な戦いが展開したりと、色々な要素があるのだが、ウェルズは思い切り単純化して、マクベスの心理の動きに焦点を合わせた。それ故、徹底的な心理劇という体裁になっている。その心理の動きはマクベスの独白という形で現れるから、これは台詞中心の映画ともいえる。その点では、舞台の雰囲気をなるべく大事にしていると言ってもよい。

原作のマクベスにもかなり優柔不断なところがあるが、この映画のマクベスは、優柔不断どころか、ほとんど主体性を持たない男として描かれている。彼は魔女たちの予言のままに動いてゆく操り人形のような受動的な存在に過ぎない。人形なら人形らしく、淡々と自分の持ち分を演技すればよいのだが、彼にはそれもできない。つねに不安に取りつかれているのだ。その不安が何処から来るのか、彼にはそれがわからない。だからいっそう不安が高まる。そんな無限地獄のような状況に自分を追い込んでいく。

こんなわけだから、この映画はマクベスの独り舞台と言ってもよいくらいだ。マクベス夫人やバンクオーを始め、脇役は無論出てくるのだが、そうした脇役とマクベスとの間にはリズミカルなやりとりがない。脇役は、マクベスの心のスクリーンに影を投げるに過ぎないのである。

脇役の中で最も重要なのはマクベス夫人だ。原作では、優柔不断なマクベスを唆して主君殺しをさせ、その後も不安に駆られる夫を励まし続けるのだが、何故か突然弱気になった挙句に死んでしまう。この夫人の描き方は、さまざまなマクベス映画の大きなポイントとなって来たもので、日本の黒沢明も、「蜘蛛巣城」において、山田五十鈴が鬼気迫る演技を通じてマクベス夫人の業のようなものを表現していた。一方ウェルズのマクベス夫人は、最初の頃こそ気丈夫なところを見せているが、突然妄想に駆られるようになって、死んでしまうのである。その死に方については、原作では触れていないが、この映画の中では城から身を投げるということにしてある。

夫人の死を知ったマクベスが、トモロー・トモローで始まる例の有名な独白をするところは原作と同じだ。この映画の中では、独白に限らず、ほとんどのセリフが原作を踏まえている。しかも発話の仕方まで古風な英語だ。

この独白に限らず、マクベスは常になにごとかをつぶやいている。マクダフによって倒される間際まで、そのつぶやきはやまない。だからこの映画は、つぶやきのドラマと言ってもよい。

なお、三人の魔女による予言を、単なる言葉で終らせないで、それを泥人形と言う形で可視化させたのは、ウェルズの工夫だろう。その泥人形が壊れる時が、マクベスの命運が尽きる時だ、という風に設定してある。この辺は見事な工夫と言ってよい。舞台ではこうした工夫はなかなかうまく機能しない。映画ならではのものだ(舞台でこの工夫に相当するものが、森が動くという設定だ。舞台の上で森を動かして見せることで、観客はマクベスの命運が尽きたことを了解するわけである。この部分は映画でも取り入れてある)。





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