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新藤兼人「藪の中の黒猫」:怪談仕立ての時代劇



新藤兼人の1968年の映画「藪の中の黒猫」は、怪談仕立ての作品である。新藤のオリジナル脚本によることから、新藤には怪談趣味があったものと思われる。「鬼婆」などは、怪談とは言えないかもしれないが、般若面が顔にこびりついて離れないというような発想は、怪談に通じるものだろう。怪談であるから、ややこしい理屈はいらない。ただ怪しい雰囲気を楽しめればよい。そんなわけで、肩の凝らない、純粋に娯楽に徹した映画である。

舞台は平安時代の京都、源頼光が出て来るから、武士が勃興する時期だ。その頃の武士は、統制がとれておらず、乱暴狼藉の限りをつくしていたという設定で、そんなけしからぬ武士の一団に、二人の女が襲われて強姦された挙句、家に火を放たれて、二人とも焼け死んでしまう。すると女たちの霊は、恨みのあまりに成仏できず、悪霊となってさまよい、武士たちに復讐するというような内容だ。

最初は、自分たちを殺した仇の武士を、家に連れ込んで油断させ、喉元を食いちぎるという方法で殺すのだが、そのうち、敵どもはすべて殺し尽したにかかわらず、武士への怨念はやまず、関係のない武士まで殺すようになる。もはや、彼女らの悪霊が鎮められることはなく、永久に武士を殺し続けるよう運命づけられているようなのだ。

そこに、数年前に戦に出かけていた彼女らのゆかりのもの、音羽信子演じる老女にとっては息子、太地喜和子演じる若い女にとっては夫である男(中村吉右衛門)が戻って来る。彼は戦場で手柄をたて、源頼光から家来として召し抱えられ、藪の銀時という名まで与えられるのだが、近頃羅城門において、何者かが武士を襲って殺す事件が頻発していることから、その犯人を見つけて退治せよと命じられる。

こうして銀時は、母親及び妻と再会する。妻は夫にあえた喜びから、冥界の約束事を破って、生きている夫に身をまかせる。それは彼女に禁じられていたことであり、そのために彼女は、七日の後に地獄へ落ちてしまう。妻を失った銀時は大いに嘆くが、母親のほうが武士を殺すことをやめないので、ついに母親を退治する羽目になる。心を鬼にして。というような、他愛ない内容なのだが、さすが新藤兼人の演出とあって、見る者をして飽きさせない。

太地喜和子がすばらしい。この映画の中の彼女は、「雨月物語」の京マチ子を彷彿させる。顔つきも雰囲気も似ている。音羽信子のほうは、あいかわらず濃艶な演技ぶりで、「鬼婆」同様、こういうタイプの役柄が似合っているとの印象を受ける。

なお、藪の中の黒猫というのは、彼女らが飼っていた黒猫が、焼け跡の藪の中に住んでいることを表示しているとともに、彼女らがその黒猫に乗り移っているようなのだ。つまり、死んで肉体を失った彼女らの霊魂が、猫の躰を借りてよみがえったというふうに設定されているわけである。猫は怪談に似合う動物だから、新藤はこの映画の中で活躍してもらおうと思ったのであろう。



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