壺齋散人の 映画探検
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テオ・アンゲロプロス「狩人」:ギリシャの政治的混乱を描く



テオ・アンゲロプロスはギリシャの現代史に取材した映画を多く作った。彼の映画の作り方は、かなり象徴的な面があって、筋の展開よりも、人間の表情とか自然の描写に重きを置いているので、ギリシャ史に暗い人にとっては、わかりにくいところがあるかもしれない。しかも、長大な作品が多いので、見る人によっては忍耐を強いられるかもしれない。

「狩人」は高名な作品「旅芸人の記録」に続くもので、やはりギリシャ現代史がテーマだ。作られたのは1977年だが、映画はその年を起点とし、1949年にさかのぼりながら、その間におけるギリシャの歴史を振り返るという構成をとっている。その歴史とは、対抗しあう勢力の間での血なまぐさい闘争の歴史といえる。第二次大戦後のギリシャは、政治的混乱にあけくれていたのである。

映画は、雪原のなかで犬を追いながら狩りをする一団の人々を映し出すことから始まる。かれらは雪のなかから姿を現した死体を発見する。その死体とは、1949年の8月に処刑されたはずの共産ゲリラだったのだ。しかもその死体は、いま殺されたばかりのように、まだ暖かい。それを見た狩人たちは、気が動転するが、とりあえずホテルに運んできて、憲兵隊に連絡する。かれらは越年パーティをするためにホテルに集まっていたのだ。かれらの多くは、体制側にコミットする人々で、したがって困った事態に直面すると、権力に助けを求めることができるのである。その権力が憲兵隊によって体現されているのは、当時のギリシャが準軍事体制下にあったことを物語っているにほかならない。

こうして、この不可解な死体をめぐって、それをどう解釈したらよいのか、狩人と憲兵による共同の探求が始まる。この死体は、その主である男の存在そのものが歴史の誤りというべきなのだが、なにしろ目の前に横たわっていて、それなりの存在感を示している。その存在感は、狩人たちに一定の恥じらいを与えるようなのだが、憲兵には無論そんな恥じらいはない。かれらは政治的なパトロンである狩人たちの要請に応じて、この死体が出現した意味を解き明かそうとするのである。

なんだか荒唐無稽なことのように思えるが、それは映画の構成が現実離れしていることからくるので、映画のなかで展開される場面そのものはみなリアルなのである。その場面は、数名の狩人たちの回想という形で、オムニバス風に展開される。時間軸に沿って、それらの場面は展開されていくので、それを順に追ってゆくと、ギリシャの現代史について一定の知識をえることができるようになっている。それを単純化して言うと、王党派を中心とする右翼勢力と共産主義勢力を中心とする左翼勢力との闘争だったということができる。この闘争は映画の基準点である1977年においても現在進行形であったので、この映画の中で示される暴力的な対立には、かなりの現実感があったわけである。

映画は、狩人のなかから指名された何人かの証言というか、回想を映し出すという形で進んでゆく。なにしろ個人的な回想であるから、あまり脈絡はない。このホテルの所有者は共産主義勢力の拠点であったこのホテルの建物を二足三文で買い取り、今のように繁盛するまでに育て上げた。別の男は1958年に行われた選挙において、自分が選挙管理委員長として果たした役割について回想する。その役割とは、王党派に都合がよいように、選挙に介入することだった。また別の男は、1963年に左翼勢力を壊滅するにあたっての自分の貢献について回想する。その回想のなかでは、ジャーナリストの拘束とかデモの指揮者の殺害なども出て来る。

また、左翼が勢力を盛り返し、1964年には民主主義が勝利したと叫ばれるが、その三年後には国王によるクーデターが成功する、といった具合で、転々と変化するギリシャの政治状況が、狩人たちの記憶をもとに再現されてゆくのである。

そうした場面を見ていると、アンゲロプロスはどちらか一方の側には立っておらず、ギリシャの現実を淡々と描くような姿勢が伝わって来る。左翼に共感しているようには伝わってこないし、ましてやファシストを支持しているようにも伝わってこない。戦後のギリシャの政治状況を踏まえれば、隣国ユーゴをもまきこんだ共産主義勢力とか、それを目の敵にするファシストの台頭とか、いろいろな事情があったわけで、知識人としては、そう単純明快な立場には立てないということだろうか。

ラストシーンでは再び雪原が舞台となり、そこを狩人たちが例の死体を運んで行く。かれらはその死体を発見した場所までくると、雪のなかに隠すのだ。隠すと言っても、ただ雪を死体にかぶせるだけだから、春になれば姿をさらすことになるだろう。だがそんなことはどうでもよい、というような雰囲気が画面からは伝わって来る。

アンゲロプロスの映像の処理の仕方は、モンタージュの対極にあるものだ。ややロングショット気味の画面を延々と長回しする。その長回しされたシーンは、舞台の書割を見るようである。こういう映画作りは、日本の溝口健二などが得意としたものだが、アンゲロプロスもそれを意識しているのかもしれない。

なお、ギリシャ映画だから当然のことかもしれないが、エンディングメッセージとして「テロス(Τέλος)」の字幕が出て来る。それを見ると、古代ギリシャの哲学者たちの思索の営みを想起させられる。テロスには、終わりという意味のほかに、目的とか究極とかいう意味もあって、その言葉の意味をめぐって、あのアリストテレスも思索に耽ったのであった。つまりこの言葉は、ギリシャの古代と現代をつないでいるわけである。



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