壺齋散人の 映画探検
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テオ・アンゲロプロス「こうのとり、たちずさんで」:国境の意識



テオ・アンゲロプロスの1991年の映画「こうのとり、たちずさんで」は、国境がテーマである。国境というものを、日本人はあまり自覚することがないが、陸地で接しあっているヨーロッパの国々では、日常的に意識される。とりわけ、なにかのことで戦争とか動乱が起ると、難民が発生したりして、国境管理の問題が表面化し、一気に人々の意識に上る。この映画はそうした国境にかんする意識をテーマにしたものだ。時あたかもユーゴズラビアが解体し、民族紛争が激化するきざしを見せていた頃だ。ギリシャにもそうした動きが波及して、難民問題などを通じて、国境の問題がクローズアップされたということだろう。

その国境の問題にからめて、さまざまな人間模様が描かれる。主人公のテレビ・レポーターと難民の少女との愛とか、その少女の父親だという人物の謎の過去をめぐる物語とかいったものだ。そのため、劇の進行に厚みが生まれている。とはいえ、かならずしもわかりやすい映画ではない。アンゲロプロスの作品らしく、難解なのであるが、他の作品にくらべれば、いくぶんかはわかりやすいという印象を受ける。

ギリシャの国境地帯に多くの難民が押し寄せ、仮説のバラックで入国手続きを待ちながら、その日暮らしをしている。難民は、隣国のアルバニア人のほか、トルコ人やクルド人もいる。また、アジアからギリシャをめざすものもいるようで、映画は、アジアからの難民がギリシャ政府から入国拒否された挙句、海難で死に、その死体の収容まで拒否されるという場面から始まるのだ。

映画の主人公はテレビ・レポーターのアレクサンドレだ。かれは仲間とともに難民キャンプの取材に訪れた。撮影した映像の一部に、心当たりの人物を見出したかれは、その人物が数年前に失踪した大物政治家ではないかと疑う。マルチェロ・マストリヤンニ演じるその男は、議会演説の最中に忽然と姿を消してしまい、二度と政治の舞台に戻ることはなかった。その男がなぜかこのキャンプにいる。しかもアルバニアの難民として。

不可解に思ったアレクサンドレは、男の妻(ジャンヌ・モロー)を呼んで、事情を話す。妻は男の失踪について語る。失踪後一度は戻って来たが、その際には記憶を喪失しており、何故失踪したのか原因もわからぬまま、男は再び失踪したというような話を聞く。そんな合間にアレクサンドレは、ダンス・パーティの会場で一人の不思議な少女と出会い、彼女とセックスをする。そして彼女の住んでいるバラックを訪ねた所、そこで思いかけずも、マルチェロ演じる男と出会う。彼女はその男を父だというのだ。

アレクサンドレはジャンヌ・モローを再び呼び、男と引き合わせる。二人はしばらく見つめあっていたが、言葉を交わさないままに別れる。彼女は言うのだ。あの人は私の夫だった人間ではないと。しかし男から得た印象では、どうやら二人は夫婦だったのではないかというふうに伝わってくるのである。

こんな具合で、難民キャンプを舞台に一組の男女のドラマが進行するわけだが、アンゲロプロスがなぜ、こういう話をさしはさんだか。それも政治家の失踪というような設定で。それはわからないが、このサブプロットがあるために、映画に厚みが生まれているのは確かだといえよう。

映画のクライマックスは、河の集会と呼ばれる行事を映すシーンだ。アルバニアのある村から、人口の半分がギリシャに来ている。その連中が年に一度、残りの半分と国境の河を挟んで対面するというものだ。それに合わせて一組の結婚式が行われる。その花嫁というのが、なんとアレクサンドレとセックスをした少女なのだ。彼女がなぜアレクサンドレをセックスに誘ったのか、よくはわからない。アレクサンドレなら、自分を難民の境遇から救いだしてくれるのではないか、と思ったのかもしれない。しかし彼女が結婚することにした相手の男は、幼馴染であり、愛してもいるのだ。その男とは、すぐには一緒に暮らせないが、いずれそうなるだろう。

この河というのがどういう所にあるのか、地図で探してみたら、アルバニアとの国境線の一部になっている。地図では、どこに流れていくのかわからないので、河口をもたない河なのかもしれない。「エレニの旅」に出て来る川も、この河なのだろう。

少女の結婚式を成功させた父親は、三たび姿をくらましてしまう。理由はあきらかではない。またどこに向かったのかもわからない。そんな具合に、観客を不可解な気分にさせたまま、映画は終るのである。

映画の原題は「こうのとりのたちすくみ」といったような意味の言葉。それを「こうのとり、たちずさんで」と訳したわけだが、「たちずさむ」という日本語はないので、翻訳者の意図的な表現だろう。字幕を担当したのは池澤夏樹(小説家で詩人、小生の愛読する人)だ。かれがこんな言葉を使ったのだと思われる。いいか悪いかは別として。



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