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ビクトル・エリセ「エル・スール」:少女と父親の謎めいた関係



ビクトル・エリセの1983年の映画「エル・スール(El sur)」は、エリセにとって二作目でかつ最後の長編劇映画である。テーマは、少女とその父親との謎めいた関係。謎めいたといっても、それは父親の行動が謎めいているということで、少女自体には謎めいたところはない。彼女は父親の謎めいた行動に振り回され、それがもとで反抗したりもするが、基本的には父親を深く愛しているのである。

父親はスペイン北部のある村に医師としての職を得て、村の郊外にある一軒家を借りる。カモメの家と呼ばれるその家で、妻及び娘に家政婦を加えた生活をしているのだが、ある日を堺に不可解な行動をするようになる。手紙の封筒にイレナ・リオスという名前を幾つも書き散らしたり、家族と口をきかなかったり。その理由を少女は知りたいと思うのだが、父親は語ってくれない。父親が語る気になったのは、少女が娘になったときだ。しかしその時には父親は死ぬ決断をしていた、というのがこの映画の基本プロットである。

映画は、父親が家出する場面から始まる。家出した父親を母親が、夫の名を呼び叫びながら探し回る。その母親の声を聞きながら、父親は戻ってこないのではないかと、少女は思うのだ。その少女の思いに乗るようなかたちで、それまでの家族の生活ぶりが回想される。その回想のなかで、父親の謎の行動の理由は一人の女性にあるのではないかとわかって来る。その女性を父親はいまでも愛しているのだ。父親が家出をしたのは、その女性に会いに行くためだったのだが、結局汽車に乗らず家に帰ってきた。しかし父親が妻や娘に心を開くことは二度となかったのである。

映画は、父親が家出から戻ってきた時点から、再び現実の話として進行する。少女は娘へと成長する。その娘をある日、父親が食事に誘う。その席で娘は父親の秘密について尋ねる。しかし父親は核心的なことはいわない。本当は言いたかったのかもしれない。というのも、今日は学校をさぼって自分と一緒に居て欲しいというのである。少女は学校に行くと言ってその場を離れる。それが彼女が父親と話した最後の会話になった。その直後に父親は自殺してしまうのだ。

父親がなぜ自殺したのか、映画からは明確には伝わってこない。ただ父親がある女性を深く愛しており、その愛に破れたことが関係しているとは推測できるようになっている。父親はその女性に手紙を書き、その返事をもらうのだが、その返事の手紙のなかでその女性は、彼との過去について皮肉な言い方で振り返りながら、もう二度と自分に手紙を出してほしくないと宣言する。それにかれは打ちのめされたようなのだ。しかし、それは娘がまだ少女の頃の出来事で、父親が実際に自殺するのはその数年後のことだ。その数年の間に何があったのか、映画はほとんど何も言わない。

少女の初の聖体拝受式を祝うために、南部から祖母と父親の乳母がやってくる。その乳母から少女は、父親の若い頃の話を聞く。父親はその父つまり少女の祖父と険悪な関係になったのだが、その理由は政治的見解の相違だという話だ。祖父はフランコ派で、父親は共和派。互いに自分の正統性を主張して正面から衝突したというのだ。そういう政治的なテーマをなにげなく映画のなかに持ち込むのは、一作目の「ミツバチのささやき」でも見られたところだ。そうした政治的な対立が、どうも昔の恋人との仲を裂き、彼自身投獄されることにつながったのだと思わされたりもする。

聖体拝受式のあと、家の中でささやかなお祝いのパーティが催され、少女は父親とダンスを楽しむ。その伴奏に、雇った楽隊による音楽が演奏される。その曲は「En er mundo」といって、ラテンミュージックの人気曲だという。また、タイトルの「El sur」は南という意味だが、これは父親の実家があるところであり、また昔の恋人が住んでいるところでもある。父親がその恋人宛に出した手紙はセビージャ宛だったのである。その南部の父親の実家に、少女は病気の転地療養を兼ねて出発するのである。映画はまさに出発しようとする少女の表情を写しながら終わるのだが、実はこの続きが予定されていたところを、後半部分をカットする形で公開されたということである。

前作の「ミツバチのささやき」もそうだったが、この映画も陰影に富んだ画面が美しい。



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