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ケン・ローチ「家族を想うとき」:貧困による家族解体の危機


ケン・ローチの2019年の映画「家族を想うとき(Sorry We Missed You)」は、夫婦共稼ぎでもまともな収入が得られず、苛酷な労働環境のせいで家族にかかわる時間ももてず、貧困のおかげで家族が解体の危機に瀕する、といった現代イギリス社会に普通にみられる光景を、鋭い批判意識を込めて描いた作品だ。

サッチャーが始めた新自由主義路線のあおりを受けて、イギリスの労働環境は劇的に悪化した。労働者は、政府による保護を受けられず、資本家のあくなき金もうけの餌食となった。ケンローチはこうした風潮に疑問を投げかけ、2007年の「この自由な世界で」では、(主に移民系の人間を)搾取する側の人間を描いていた。「自由な世界」とは、自由気ままに人間を搾取できる世界という意味で使われていた。それから12年後に作った「家族を想うとき」は、自由な意思にもとづいて搾取される人間を描いている。かれは納得ずくで搾取を受けるのであるから、愚痴はいうが、基本的には自分の境遇を受け入れている。意に沿わないことが起こっても、それは自己責任の範囲であって、他人を非難すべき資格はない、そんな風に思っているイギリス人がこの映画の主人公なのである。

その男がありついた仕事というのは、請負制の配達業である。請負制であるから、社員として雇われるわけではない。すべて自分の才覚で仕事をこなさねばならぬし、都合が悪くて仕事ができないときには、その穴を自分で埋めねばならない。でなければ、高い罰金を取られる。仕事はきつい。なにしろ、決められた時間通りに運ばねばならないし、運び先の人間にはたちの悪いのもいる。不愉快なことが多くて、ストレスがたまる。そういったことはすべて、自己責任の範囲内でのことであって、仕事を請け負ったら、仕事をすべてに優先させなければならない。家族に重大問題が生じても、面倒を見るゆとりはない。そんな夫に負けず劣らず、妻のほうも苛酷な労働条件にあえいでいる。妻は介護の仕事をしているのだが、夫のためにクルマを売ることを強いられ、バスで患者の家を訪問している。仕事がいやなわけではないが、従来より労働条件が悪化している。要するに夫婦とも、苛酷な仕事でへとへととなり、家庭を顧みる余裕がないのだ。

そんな両親を見ている子供たちは、反抗期ということもあって、いろいろな面倒を起こす。息子は万引きして警察に捕まるし、娘は父親の車のカギをどこかにかくしてしまう。父親は息子の仕業と思って息子を責める。怒った息子は家出をする。家族は解体の危機にさらされる。そんな折に、配達途中ならず者どもに襲われ、ひどいけがをさせられたうえに、荷物を盗まれてしまう。イギリス社会では、こんなことは日常茶判事だと思わされるような描き方だ。

結局家族は解体の危機を乗り切ったに見えるが、一家の状況がよくなる見込みはない。あいかわらず、課題な責任を背負わされて、一日14時間も働き続けねばならない。それがサッチャーの目指した理想社会のあり方なのである。

この映画を見ると、新自由主義がイギリス社会にもたらした破壊的な状況が、切実感をもって迫って見える。この映画の中で描かれた労働環境は、近年日本でも拡がっている。実態としては賃金労働者と異ならない人間を、事業者としたうえで請負契約を結ぶ。雇用するものは、雇用上のあらゆる負担を逃れる上に、雇用されるものの超過労働もただで使える。資本の側にとっては、これほど素敵なシステムはない。


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