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リチャード・エア「アイリス」:認知症を描く



リチャード・エアの2001年の映画「アイリス(Elegy for Iris)」は、アルツハイマー病に襲われた妻と、そんな彼女を献身的に介護する夫の間の、感動的な夫婦愛を描いた作品。アルツハイマー病をはじめ認知症は、高齢化の進展もあって、いまでは誰にとっても身近な問題だ。自分自身いつ認知症にならぬとも限らぬし、また配偶者がならぬとも限らない。だからこの映画で描かれたような夫婦間の問題は、誰にとっても他人事ではない。誰もがいずれ自分自身が向き合わねばならなくなる境遇だ。

高名な作家である妻と、大学の教員である夫。妻のほうが年上ということもあって、かれらは出会った時から女性主導のカップルだった。妻のほうは事由奔放な生き方を享受し、他の男たちとのセックスを楽しむ。そんな妻に対して夫はつねに劣等感を抱き続けていた。その妻が、高齢に差し掛かった頃にアルツハイマー病を発症する。当時アルツハイマー病の原因はよくわかっておらず、治療法もほとんどなかった。いったんかかると不可逆的な経過をたどる不治の病と思われていたのである。

そんな妻を夫は献身的に介護する。若い頃には、妻に疎外されていると感じたものだったが、いまその妻は全面的に自分の庇護下にある。そんな妻を夫は、独占できると同時に精神的な優位に立てることもあって、自尊心をくすぐれらるような気持ちにもなる。だがやがて病状は進行して手が付けられなくなり、家での介護が不可能になって、施設に入れねばならなくなる。そんなプロセスを、同時的な時間の流れと若い頃の思い出を相互にからみあわせながら描いていく。

映画はただひたすら、妻の介護に全力をあげる夫の姿を映し出す一方、若い頃のかれら夫婦の関係が回想される。回想の中で夫は幸福ではなかった。妻がしょっちゅう他の男と寝るからだ。妻は、男と寝るのが好きなのだ。そんな妻に対して、夫は嫉妬よりも劣等感を覚える。妻が他の男と寝るのは、妻に魅力があるからだし、妻が自分だけで満足しないのは、自分に魅力がないからだ。だがいまは違う、妻は自分の庇護下にある。自分は妻を全面的に意のままにできる。それは自分にとってしあわせなことだから、妻と二人だけの暮らしを続けていきたい。

そう夫は願うのだが、現実は甘くはない。妻の認知症が進むにつれて、夫の手にはおえなくなる。夫は必死になって妻をコントロールしようとするが、妻はいつも自分の手をすりぬけてしまう。危険な目にあうのはしょっちゅうだ。その折々に夫が見せる途方にくれた表情は、同じような境遇を経験した人にはよくわかるのではないか。小生も認知症に陥った母親を介護した経験があるので、この映画の中の夫の苦悩が自分のことのような伝わってくる。画面を見ながら胸にせまってくるものを感じたのは二度や三度ではない。

妻は結局、施設に入れられ、まもなくそこで静かに息を引取る。その様子を見ると、病院をふくめた老人用の施設というのは、生きるために入るところではなく、死ぬために入るところだという、ある意味当たり前のことを強く感じさせられる。

ともあれ、色々と考えさせられる映画である。




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