壺齋散人の 映画探検
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ウィリアム・ワイラー「ミニヴァー夫人」:戦意高揚映画の傑作



ウィリアム・ワイラーの1942年の映画「ミニヴァー夫人」は、第二次大戦中に作られた数多くの戦意高揚映画の中の傑作と言うべき作品である。戦意高揚映画には一定のパターンがあって、残虐な敵から国土の安全と国民の命を守る自衛のための戦いだというメッセージを盛り込むのが常だが、ワイラーのこの作品は、そうした単純な戦意高揚を目的とはしておらず、もっと高い倫理的な視点から戦争の正当性を訴えたものだ。

第二次大戦が始まったときには、アメリカにはまだ参戦に賛成する世論は熟していなかった。大戦は欧州を舞台にしており、そこから地理的に離れたアメリカには直接の影響は及ばず、したがって国土防衛、自衛のための戦いに立ち上がろうという機運は弱かった。アメリカが参戦を決意したのは、真珠湾で自国の兵士たちが大勢殺されたことがきっかけだ。そうしていったん参戦してみると、当面の敵である日本のみならず、ナチスドイツやファッショイタリアとの戦いという側面も強調された。その場合にアメリカ人が持ち出した理屈は、この戦いが正義を実現する戦いだというものだった。つまりアメリカは単に自国の利益を守るにとどまらず、この世界に正義を実現するために闘うのだという建前が強調されたわけだ。この映画にも、そうした側面が強く現われている。

この映画の舞台はイギリスのロンドンの郊外にある町である。ベラムといって、ウェストミンスターより上流のテムズ川添いの町だ。アメリカ映画なのにロンドンを舞台にしたのは、アメリカ国内には戦争の緊迫感がないからだ。同盟国であるロンドンを舞台にし、そこの市民が正義のために立ち上がり、戦う様を描くことで、イギリス人がこのように困難な闘いをしているのだから、同盟国であるアメリカの市民も一緒に立ち上がろうではないか、というメッセージを映画に込めたのである。

映画はイギリスの中産階級の一家を描いている。その一家(ミニヴァー家)が、家族を挙げて戦争の大義のために戦う姿を映画は描いている。一家の主人(ウォルター・ピジョン)は、ダンケルクでドイツ軍に追い詰められているイギリス人兵士を救助するために小さな船で命がけの航海をするし、妻のミニヴァー夫人(グリア・ガースン)は夫の留守に撃墜されたドイツ兵に遭遇し、命の危険を感じる。息子のヴィンは自ら空軍兵士に志願し、ナチスドイツの空襲部隊を迎え撃つ仕事に励む。その陰で息子のフィアンセは空襲の巻き添えで命を失う。つまりこの家族は一家をあげて戦争のために身をささげ、つらい思いをするのだ。

しかしそのつらい思いにひしがれたりはしない。何故なら彼らは正義のために戦っているのであり、受けた打撃は悲しくはあるが、尊い犠牲だからだ。映画の最後のところで、破壊された教会の中で牧師が住民を前に説教をする場面がある。その説教の中で、死んだ人達への哀悼の言葉とともに、牧師はこう言うのだ。何故良識のある人々が死ななければならなかったのか、それは戦争が兵士たちだけのものではないからだ、自由を愛するすべての人にとっての戦争であり、人間の戦争なのだ、それゆえ我々一人一人も戦士なのです、と。

これは、国民に向かって総力戦を呼びかけるためのロジックだ。特にアメリカの場合には、自国が戦場になったわけではないので、自衛のための戦いというロジックよりも、正義のための戦いというロジックの方が、人々の心に訴えたのだと思う。

こんなわけでこの映画は、ロンドンという外国の土地を舞台にしながら、アメリカ国民に対して戦争への協力を呼び掛けるプロパガンダ映画だと言ってよいのだが、この種の映画にありがちの押しつけがましさは感じられない。正義のための戦いという大義に自然と人々を誘導するように、巧妙に仕掛けられている。そこは映画作りの名人といわれたワイラーのことだ。心憎い演出が行きとどいている。

なお、ワイラーはドイツ系のユダヤ人である。この映画の作られた時点では、ナチスによるユダヤ人へのホロコーストは公然化していないが、ヒトラーの反ユダヤ主義は広く知られていた。ワイラーは一人のユダヤ人として、ナチスの反ユダヤ主義に反発し、その反ナチズムを正義の理念によって基礎づけようとする意図がこの映画からは伝わってくる。



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