壺齋散人の 映画探検
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ウィリアム・ワイラー「我らの生涯の最良の年」:
復員した元兵士たちの社会復帰



ウィリアム・ワイラーは、1942年にある種の戦意高揚映画である「ミニヴァー夫人」を作ったが、戦後いち早く作った「我らの生涯の最良の年(The Best Years of Our Lives)」では、戦争が市民生活に及ぼした深刻な影響について反省している。アメリカ映画が戦争の意味を振り下げた作品を作るのは非常に珍しいことだ。ワイラーは、ユダヤ人であり、アメリカ人としての意識よりもコスモポリタンとしての意識が強く、そうした立場から戦争に向き合ったのだと思う。

この作品は、戦後復員した元兵士たちの、社会復帰のプロセスを描いている。彼らの社会復帰はスムーズに進まない。一つには彼ら自身が戦場で受けた心の傷のようなものがそれを阻んでいるのだし、また社会の方では、彼らを暖かく受け入れてくれない、少なくとも彼ら自身がそう思っている。しかしその彼らも最後には、自分と社会との和解を選ぶ。その陰には彼らを支えてくれた人々の暖かいまなざしがあった。そのまなざしを彼らに注いでくれたのは女性たちだった。というわけでこの映画は、女性の暖かさと慈悲深さを強調している。映画が全体としてヒューマンな印象を与えるのは、女性たちのおかげなのである。

主人公は三人の復員兵、一人は空軍の爆撃手フレッド(ダナ・アンドリュース)、一人は陸軍歩兵アル(フレデリック・マーチ)、一人は海軍機関兵ホーマー(ハロルド・ラッセル)だ。三人ともブーンという町に住んでいて、復員後軍の飛行機に乗ってその町に帰ってくる。彼らは以前は互いに没交渉だったのだが、復員後はかつての戦友として親密に交流する。アルは、妻(マーナ・ロイ)はじめ家族から暖かく迎えられ、勤めていた銀行にも復職出来て、順調に社会復帰が進みそうである。フレッドは、結婚したばかりの妻と心が通わず、復職もうまくゆかない。あまつさえ妻は、自分を見限って他の男と懇ろになる。ホーマーは、海戦中に両腕を失い、そのことでコンプレックスをもっている。そんな彼をフィアンセのマリアが暖かく迎えてくれる。

最期には、ホーマーとマリアが結婚式をあげ、フレッドとアルの娘ペギーが結ばれ、アルとその妻ミリーとがあらためて絆を深めるところで終わる。「我が生涯の最良の年」とは、この三組の人々がそれぞれ未来に希望をつないだ日のことを言うのである。

復員兵の社会復帰のむつかしさを描いているが、決して告発的な調子は感じられない。彼らの社会復帰がなかなか進まないのは、社会のほうにも問題はあるが、彼ら自身も大きな問題を抱えていて、それが障害となっているといった見方をとっている。ひとつだけ社会に対する批判が感じられるのは、徴兵されたものと、徴兵を逃れたものとの不平等について軽く言及している部分である。徴兵されなかったものは、自分だけの力で生き残ったような顔をしているが、実際に彼らが生き残ることができたのは、徴兵されたものたちが命を懸けて戦ったからではないか。それなのにそうした連中を含めて、社会の彼らに対する視線はあまりにも冷たい。

これはアメリカの徴兵制度への一つの批判なのだろう。当時アメリカは選抜徴兵制というものを採用していて、徴兵されるかどうかは、運次第だと言われた。実際にはさまざまな要因が働いて、徴兵されるものと逃れる者とがわかれたようだ。だから徴兵を逃れたものにとっては、徴兵された人間は単に要領が悪かったのであり、別に同情するまでのことではない、といった空気があって、それにワイラーは納得いかない気持ちを感じたのではないか。映画の中で、徴兵された人を馬鹿にする人間がいて、それをフレッドが叩きのめすシーンがあるが、そこにはワイラー自身の気持も込められていると感じさせる。

復員兵が社会に溶け込めないばかりか、逆に疎外感を感じるという設定は、後に「七月四日に生まれて」とか「ランボー」の中でも繰り返された。後者はベトナム戦争からの復員兵を描いたものだが、構図的にはこの映画と異なることはない。日本のように国民全体が徴兵された国では、復員は社会全体の問題だったわけだが、アメリカのような選抜徴兵制を採用した国においては、社会の一部についての問題にとどまったわけであろう。

なおこの映画は、三人の復員兵が、軍部の飛行機で故郷の町に戻ってくるシーンから始まるのだが、その光景を見ると、同じ復員でも、日本のそれとの落差を感じさせられる。日本では、船で各地に上陸した復員兵たちは、大変な思いをしながら、自力で自分の家までたどりついたものだ。



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